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東京高等裁判所 昭和44年(う)1857号 判決

本籍

東京都港区南麻布五丁目二番地

住居

同区南麻布五丁目三番二九号

会社役員

斉藤博

大正一一年七月一日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和四四年六月二八日東京地方裁判所が言い渡した有罪判決に対し、被告人から適法な控訴の申立があつたので、当裁判所は、検事中野博士出席のうえ審理をし、つぎのとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人真鍋薫作成名義の控訴趣意書および同補充書(二通)各記載のとおりであるから、これを引用し、これに対して、当裁判所は、つぎのとおり判断する。

一、控訴趣意(以下趣意という)第一点について。

(一)  趣意第一点の第一の一の主張について。

所得税のほ脱犯は、詐偽(偽り)その他不正の行為(以下詐偽その他不正の行為という。)により昭和四〇年法律第三三号による改正前の所得税法(以下旧法という)第二六条第三項第三号または同改正後の所得税法(以下法という)第一二〇条第一項第三号に規定する所得税を免れることにより成立するのである。本件は、過少申告による所得税のほ脱犯であるから、その構成要件は、納税義務者が当該年度の所得について所轄税務署長に確定申告をなすに当り、詐偽その他社会通念上不正と認められる積極的な行為をなして所得を隠匿し、右年度の実際の所得金額(総所得金額、退職所得金額および山林所得金額)とこれに対応する正当な所得税額を申告すべきであるのに、右実際の所得金額より少額の所得金額とこれに対応する所得税額の確定申告書を提出し、正当な所得税額を法定の納付期限内に納付しないで、これと申告所得税額との差額を免れることであると解する。そうだとすると、原判決の判示事実は、過少申告によるほ脱犯の構成要件の摘示として十分であることは、原判示事実の記載自体から明らかである。

(二)  趣意第一点の第一の二および控訴趣意補充(第一)(以下補充(第一)という)第一の主張について。

イ、本件認定賞与分について被告人に申告義務がないという主張について。

国内に住居を有し、または引続いて一年以上居所を有する個人(居住者)は、治外法権を有する者を除き、旧法または法その他法令の規定により所得税を課さないとされた所得(非課税所得)以外のすべての所得について納税の義務を有することは、旧法第一条第一項第二条第一項第六条、法第二条第一項第三号第五条第七条第一項第一号第九条の規定および国際慣習上明白であるばかりか、旧法第二六条、法第一二〇条が居住者は確定申告に際し総所得金額、退職所得金額および山林所得金額を記載した確定申告書を提出しなければならないとしている点からも明らかである。

被告人が右治外法権を有しない居住者であることは、証拠上これを認めることができ、また本件認定賞与が右非課税所得に該当しないことは、右非課税所得に関する法令の規定に徴し、明白である。

そうだとすると、被告人は本件認定賞与分についても確定申告に当り、これを他の所得に加え、その合計した所得に対応する税額を申告すべき義務があると解すべきである。

給与支払者は居住者に対し、給与を支払う際給与所得に係る所得税を源泉徴収しなければならず、もし給与支払者が右源泉徴収をしなかつたときは、税務署長は給与支払者からこれを徴収し、給与支払者は右所得税額に相当する金員を居住者に対し請求することができる(旧法第三八条第四三条、法第一八三条第二二一条第二二二条)ことは、所論のとおりである。

しかしながら、右は、給与支払者の源泉徴収義務に関するものであつて、このことからして給与所得に係る所得税は、給与支払者が源泉徴収の方法により、または税務署長の給与支払者に対する徴収決定によつてのみ課税徴収されるものであつて、給与の支払を受けた居住者に申告納税の義務がないということはできない。

また、旧法第六九条の二または法第二三九条は、給与所得者等の納税義務者が給与支払者等の源泉徴収義務者を通じて虚偽の事実を主張し、その虚偽の事実に基づいてなされた所得税の源泉徴収が正当の納税額より過少になつた場合の罰則の規定であると解すべきであるから、同規定があるからといつて、前記認定の妨げとなるものではない。

ロ、本件認定賞与分について被告人に申告義務を課することは、不能を強いるに等しいという主張について。

本件認定賞与分のうち、女中の給与分について、原判決別紙第四22〈2〉、第五17〈2〉第六18〈2〉、その余の金額について、原判決別紙第四22〈1〉〈3〉〈4〉、第五17〈1〉〈3〉〈4〉〈5〉、第六18〈1〉〈3〉〈4〉〈5〉のとおり認定すべきであることは、後記(一〇の(二)および(三))のとおりであり、原審第一一回公判調書中の証人斉藤みつ子の供述記載と被告人の昭和四二年二月一六日付検察官に対する供述調書を綜合すれば、被告人に本件各確定申告当時いずれもそれが否認さるべきものであることの認識が十分あつたと認めることができるから、本件認定賞与分について被告人に申告義務を課することが不能を強いるに等しいものであつて、これを常人に期待することは不可能であるということはできない。

(三)  趣意第一点の第一の三および控訴趣意補充(第二)(以下補充(第二)という)第一の主張について。

原判決は被告人が原判示のような方法で所得を秘匿したときに、被告人に所得税を免れる目的があつたばかりでなく、原判示の各過少申告をなしたときにも、右目的があつたことを判示していることは、原判示事実の記載自体から認められる。そうだとすると、原判決は、被告人が脱税の目的で過少申告をした(過少の虚偽申告)ことを判示したこととなり、被告人に犯意があることを判示したことに欠くるところはない。

(四)  趣意第一点の第一の四および補充(第二)第二の主張について。

過少申告によるほ脱犯における「詐偽その他不正の行為」の「行為」とは、納税義務免税のための積極的な行為をいい、「不正」とは社会通念上許されないものをいうものであると解すべきことは、所論のとおりである。

そして、被告人の昭和四二年二月一三日付検察官に対する供述調書によれば、被告人は、裏金をつくるため、本件架空預金を設定したというのであり、その預金については、前記の如く確定申告に当つてはすべての所得を申告すべきであるのに、これを申告していないことが認められるから、被告人に脱税の目的があつたということができる。

そればかりか、『過少申告ほ脱犯における「詐偽その他不正の行為」とは、過少申告それ自体をいい、過少申告に先立つて行なわれるところの帳簿上の不正操作や架空名義預金の設定等による財産隠匿の不正手段は、過少申告に対する準備行為に過ぎない』と解すべきである。原判決は、「架空預金で割引手形を取立てる等の方法により所得を秘匿した」ことのみをとりあげているものではなく、これに加えるに過少虚偽申告をなした旨摘示しているのである。もとより被告人に過少虚偽申告の認識が必要であることは所論のとおりであつて、被告人にその認識があつたことは、後記(二)説示のとおりであり、原判決にその旨の判示があることは前記(一(一))説示のとおりである。それゆえ、原判示が詐偽その他の不正の行為の摘示として不十分であるということはできない。

したがつて過少申告に先立つて行なわれる帳簿上の不正操作や架空名義の預金の設定等による財産隠匿の不正手段を「詐偽その他不正行為」であるとなし、これを前提とする所論は、採用できない。

また過少の虚偽申告それ自体が不正の行為であることは、前記説示のとおりであるから、所得を秘匿する方法を逐一摘示する必要はなく、その重なるものを摘示し、その他を「等」なる文言により摘示することは、何ら判示事実の摘示として欠くるものとはいえない。

(五)  趣意第一点の第一の五の主張について。

所得税法(旧法および法をいう。以下同じ)は、所得を分類し、それらの各所得は、それぞれ発生原因を異にし、したがつて課税の方式を異にするから、同法が一個の申告書をもつて申告することを定めていても、それは、累進課税方式を採用している関係から計算上の便宜ないしは徴税上の便宜に基づくものであつて、ほ脱犯の成立については、各所得毎に詐偽その他の不正行為がなければならず、判決にはその旨判示すべきであることは所論のとおりである。(したがつて、ある所得について過失によつて過少の申告をした場合は、そのものについてはほ脱犯は、成立しないと解すべきである。)

しかしながら、前記(一(四))説示のように過少虚偽申告によるほ脱犯については、過少申告それ自体が詐偽その他の不正行為であると解すべきである。そればかりか、原判示は「架空名義を用いた預金口座で割引手形を取立てる等の方法により」と判示し、その所得隠匿のうちの重なものを摘示し、他は「等」なる文言を用いて摘示しているのである。そして原判示に各所得について正当な申告がなされていない旨摘示されてあることは原判決自体により明らかである。したがつて、原判決は、詐偽その他の不正行為を各所得毎に明確に判示しているということができる。

(六)  趣意第一点の第一の六および補充(第二)第三の主張について。

過少申告によるほ脱犯において所得税を免れるとは、納税義務者が税務署長に過少の虚偽申告書を提出し、税務署長がこれを受理し、納税義務者が法定の申告期限までに正当な所得税額を納付することなくして右期限を徒過することをいうと解すべきものであるから、原判示は被告人が所得税の納付を免れた結果の発生した事実を摘示したものとして十分である。

過少申告によるほ脱犯は、右のように過少の虚偽申告をし、申告期限を徒過することによつて既遂となるのであるから、右期限後修正申告を済ませても、それだから課税権の行使が不能もしくは著しく困難になつたことはなく、所得税を免れたとはいえないとか、税務当局には強力な質問検査権があり、申告期限後三年ないし五年にわたつて課税権を行使することができ、また税務署長は、納税申告書の提出があつた場合には、調査をして申告と調査の結果が異なるときは、更正する職責を有しているから、単に申告書が提出、受理されたというだけで、課税権の行使が不能ないしは著しく困難になつたということはできず、所得税を免れたといえないというが如き所論は、とうてい採用できない。

以上の理由からして、趣意第一点の第一、補充(第一)第一および補充(第二)第一ないし第三の論旨は、理由がない。

二、趣意第一点の第二および補充(第二)第四について。

過少申告による所得税のほ脱犯は、前記説示のように、納税義務者が確定申告をなすに際し、その年度の実際の所得を申告すべきであるのに、過少の虚偽申告を行なつて、正当な税額と申告税額との差額を免れることである。したがって、過少申告ほ脱犯の犯意は、納税義務者が計数的に正確な所得額ないしほ脱額を認識しなくても、実際の所得額より過少である所得額とこれに対応する税額を記載した確定申告書を税務署長に提出することの認識(いわゆる概括的犯意)があればそれで足り、右過少申告にいたるまでの個々の会計的事実の虚偽または粉飾などの認識はいらないと解すべきである。

ところで、被告人の昭和四二年二月一三日付および同月一六日付各検察官に対する供述調書によると、被告人に本件所得について過少虚偽申告の概括的故意があつたことを肯認することができる。

また被告人に本件手形割引や配当収入について申告義務があることおよびこれを申告すべきであつたのにあえて申告しなかつたことについて認識があつたことは、後記(三(一)および五(三))説示のように証拠上明らかであるから、これらの認識がなかつたとする所論は、採用できない。

更にまたほ脱の犯意があるか否かは実際の収支を帳簿に記載したか否かとは必ずしも関係ないものであるから、被告人がいわゆる個人元帳に同人の実際の収支をありのまま記帳していたからといつて、同人にほ脱の犯意がなかつたということはできない。

したがつて、趣意第一点の第二および補充(第二)第四の論旨は、理由がない。

三、趣意第二点の第一および補充(第一)第二について。

(一)  本件配当収入についてのほ脱の犯意と本件借入金の必要経費性の主張について。

本件配当収入について被告人にほ脱の総括的犯意があつたことは、被告人の昭和四二年二月一三日付検察官に対する供述調書により明らかである。借入金利子が必要経費として配当所得から控除されるためには、ただ借入金があつたというのみでは足りず、その借入金が株式所得のためのものでなければならないというべきである。ところが、本件借入金が株式所得のためのものであることは全証拠をもつてしてもこれを認めることができない。

(二)  借入金の性質について釈明権の不行使についての主張について。

なるほど、裁判官は、必要と認めるときは、訴訟関係人に対し釈明を求め、立証を促すことができる。しかし、本件において原判決が所論借入金は株式取得のためのものではないと判断したのは、証拠の関係からみて相当であつて、審理不尽の違法はない。所論は、採用できない。

(三)  詐偽その他の不正の行為がなかつたとの主張について。

過少の虚偽申告がある以上詐偽その他の不正行為があつたといえることは、前記説示のとおりであり、過少の虚偽申告があつたことは証拠上明らかであるから、所論は、採用できない。

趣意第二点の第一および補充(第一)第二についての論旨は、理由がない。

四、趣意第二点の第二について。

(一)  趣意第二点の第二の一および二の主張について。

原判決が或いは「簿外の収入」といい、或いは「計上洩れ」といい、その判示が各年度について必ずしも同一でないことは、所論のとおりである。しかしながら、右判示は、いずれも本来申告すべきであるのに、申告しなかつた所得を指しているものであると解すべきである。したがつて、被告人が本件所得を個人元帳に記載していたからといつて、これをもつて本件所得が原判示の簿外収入または計上洩れの収入に当らないということができないことは、明らかである。

(二)  趣意第二点の第二の三および補充(第一)第三の主張について。

被告人の昭和四二年二月一四日付検察官に対する供述調書によると、被告人は、マトヒ寿司こと猪股金次郎に対し金六〇〇万円を貸与し、同人から譲渡担保として本件土地の所有権の譲渡を受け、昭和三七年五月ころ、所有権移転登記手続を経由したが、間もなく猪股と被告人間に本件土地の譲渡について争が生じ、民事訴訟が係属するに至つたこと、その間、被告人は、同年七月ころから本件土地を萩山幾雄および赤山安治に賃貸していたことが認められる。賃貸借は、その目的物の所有権が賃貸人に属している必要はなく、他人の所有物についても成立するものである。被告人が後日民事訴訟の結果本件土地の所有権が猪股にあることが明らかになつた場合においても、本件土地の賃貸借には何らの消長を来たすものではなく、また地代として被告人が受領した金員が当然猪股になるものでもない。被告人が地代としてすでに受領した金員を猪股に渡すべきかどうかは、全く別個の法律関係によりきまるものである。したがつて、仮に被告人が本件地代を受領した当時、本件土地の所有権が猪股の所有にあることが明らかになつた場合は、地代として受領した金員を同人に渡さなければならないと思つていた(被告人は右供述調書中でその趣旨のことを述べている)としても、本件地代は、少なくとも、被告人が地代として現実に萩山または赤山から受領したとき確定したというべきである。

それ故、趣意第二点の第二および補充(第一)第三の論旨は、理由がない。

五、趣意第二点の第三について。

(一)  趣意第二点の第三の一の主張について。

手形割引収入による所得が事業所得に該当するか否かは、口数、金額、利率など諸般の状況を綜合して判断すべきであると解すべきところ、原審第四回公判調書中の証人松重俊雄、同第五回公判調書中の同増渕忠治、同第六回公判調書中の同柴崎真および同長谷徳三郎ならびに同第九回公判調書中の同臼井康雄の各供述記載、三洋商事株式会社代表取締役駒沢弘明および夏目商事株式会社代表取締役夏目喜八郎作成の取引内容照会に対する回答書と題する書面ならびに被告人の昭和四二年二月一〇日付および同月一五日付各検察官に対する供述調書と押収に係る元帳(個人分)一綴(東京高裁昭和四四年押第四八〇号の一)および個人元帳四綴(前同押号証の一五の一ないし四)を綜合すると、本件手形割引は、その口数、金額とも多く、利率も決して低くなく、これにその目的、期間、相手方など諸般の事情を合わせ考えると、本件手形割引収入は被告人の事業所得を構成すると認めるのが相当である。

(二)  趣意第二点の第三の二、補充(第一)第四および補充(第二)第五の主張について。

手形の割引は、これを手形の売買であると解すべきことは、所論のとおりである。そして、手形割引により手形金額以下で手形を取得した場合には、手形金額と取得額との差額が手形割引収入を構成するというべきである。しかしながら、そうだからといつて、所得税法上右手形割引のあつたときに、手形割引収入が生じたとしなければならないものではない。所得税法上いつ収入が生じたとみるかは、所得税法上収入(所得)は経済的成果であるとする見地から定めるべきである。本来、手形は、満期に支払いがなされ、または再割引されたときに現金化され、そのときに右収入も現実化するわけであるから、それまでは右収入は、前受利益と考えられる。原判示のように企業会計上の発生主義の立場からは、主たる営業活動による収益は、それが用役の対価である場合には時の経過とともに発生すると認識される。したがつて、法人の手形割引の前受利益については、期間対応分を収益に計算することが原則とされている。このことは、所得税法においても特別の事情がない限り妥当すると考える。本件手形割引収入は、前記認定のように、事業収入であるから、右原則に従い、割引のあつたとき以降時の経過とともに日々実現し、期間対応分が当該事業年度分の収入金額となり、未経過分は、翌期に繰り延べられると解するのが相当である。

もつとも、被告人において右と異り、永年にわたり、手形割引のあつたときを手形割引収入の生じたときとして、経理上の処理をし、それに基いて申告をし、納税もし、税務当局においてもこれを承認してきたのならば、それはそれとして是認さるべきものと解すべきである。

しかしながら、被告人は、本件割引収入について、仮に永年にわたつて右のような経理上の処理をしてきたとしても、それに基づいて全く納税をしていないのであるから、所論は採用することができない。

そうだとすると、この点についての原判決の判断は正当である。

(三)  趣意第二点の第三の三の1および2の主張について。

原審第八回公判調書中の証人平賀五郎および同第九回公判調書中の同臼井康雄の各供述記載によると、証券業界の一部で、販売員が手形割引収入は非課税となるという趣旨にとられるような誤つた宣伝をなし、被告人も販売員からその旨の説明を聞いたことが窺われる。しかしながら、右各供述記載に原審第四回公判調書中の証人川名馨、同松重俊雄および同夏目喜八郎、同第五回公判調書中の同高木清一、同増渕忠治および同大森康彦、同第六回公判調書中の同柴崎真および同長谷徳三郎の各供述記載を綜合すると、被告人は、長期間にわたつて数多くの手形割引を反覆継続しており、しかもその取引については大部分の場合自ら進んで架空名義を使用するよう証券業者に依頼し、所得を秘匿する手段を講じていたことや被告人が被告人と取引をした証券業者の多くから、その取引の数や金額など取引の態様からみて、その道の専門家であると見られるような取引をしていたことが認められるから、これらの事実に、被告人の昭和四二年二月一〇日付検察官に対する供述調書中に、被告人が証券業者のセールスの人から店頭扱いといつて、客が金を持つて店へ手形を買いに来たが、その客は何処の誰だかわからないという扱いにすれば、税務署も調査の方法がないから、税金がかからないですむという宣伝を聞いたので、手形売買に投資することを始めたとの趣旨の記載があることを綜合すると、被告人は、本件手形割引収入について申告義務があることを認識していたと認めることができる。

また被告人の昭和四二年二月一三日付、同月一五日付および同月一六日付各検察官に対する供述調書によると、被告人は、本件手形割引収入について正当な申告をしていないことの概括的故意があつたことを認めることができるから、趣意第二点の第三の三の2も採用することができない。

(四)  趣意第二点の第三の三の3の主張について。

所論の原判示は被告人の本件仮名取引または仮名預金が詐偽その他の不正の行為にあたるといつているものではない。そればかりか、過少申告によるほ脱犯においては、過少虚偽申告それ自体が不正行為に該当することは前記(一(四))説示のとおりであるから、過少虚偽申告の準備行為に過ぎない仮名取引または仮名預金が詐偽その他の不正行為であることを前提とする所論は採用できない。

趣意第二点の第三、補充(第一)第四および補充(第二)第五の論旨は、理由がない。

六、趣意第二点の第四について。

川崎大次郎作成の証明書に、押収してある第百生命保険関係書類一袋(東京高裁昭和四四年押第四八〇号三)、代理店契約書等一綴入一袋(前同押号証の四)および個人元帳(前同押号証の一五の三)を綜合すると、被告人は、第百生命保険相互会社と保険代理店契約を結び、正木武夫らの保険契約の取次をし、本件保険代理収入もこれを個人元帳に記載していることが認められるから、本件保険代理収入は、形式的にも実質的にも、被告人と第百生命保険相互会社との間の保険代理店契約に基づく手数料収入であつて、事業所得に属し、また被告人も本件保険代理人収入が事業所得であることを認識していたと認めることができる。論旨は、理由がない。

七、趣意第二点の第五について。

(一)  趣意第二点の第五の一および補充(第一)第五の主張について。

原判決挙示の証拠によると、博栄会においては、被告人の相続財産や被告人の妻子、親戚、女中らから預けられた現金を被告人が運用し、その運用利益を支払利息として会員(右預託者)に配分していたものであるが、その運用については予め利率の約定はなく、利息算出の規約や協議もなく、全く被告人の一方的な計算に基づいてなされていたのである。しかも右計算内容を会員に通知したことはなく、会員は、適宜元利の支払いをうけ、あるいは解約し、あるいは元利とも受け取ることなく、そのまま預託していたことが認められる。すなわち被告人は、右預託された現金を運用し、各回の末に利益を得た状況に応じ、専ら一方的に、内部的に、各回の利率を定め、利息を算出していたこととなる。仮に博栄会が匿名組合であつたとしても、右博栄会の利息算出や配分の方法等に徴すると、被告人が内部的に、半期毎に、各人別に利息計算をして記載したのは被告人の内部的な意思決定にすぎず、経費として確定したと認めることはできない。元利金を現実に支払つた時点で確定したというべきである。論旨は、理由がない。

(二)  趣意第二点の第五の二の主張について。

過少申告によるほ脱犯においては過少虚偽申告それ自体が詐偽その他不正の行為に当るから、被告人が博栄会関係の経理を個人元帳にすべて正確に記帳整理しているからといつて、被告人に詐偽その他不正の行為がなかつたとはいえない。また被告人に過少虚偽申告の犯意があつたことは前記(二)説示のとおりである。

趣意第二点の第五および補充(第一)第五の趣旨は、理由がない。

八、趣意第二点の第六について。

原審第一二回公判調書中の証人砂山清進の供述記載によると、後藤観光株式会社は、本件土地の売買について、被告人に対して売買代金を支払つた後に、真実の売買代金を記載した契約書のほかに、税務署用のものとして、右代金の七割程度の売買代金を記載した契約書を作成し、これを被告人に交付したことが認められる。しかしながら、所得を申告する際は、真実の所得を申告すべきであるから、仮に後藤観光株式会社が税金問題はすべて同社で処理するといつたとしても、被告人としては右正規の契約書に記載された売買代金を申告すべきである。被告人は、右税務署用に作成された契約書に記載された売買代金が真実の売買代金より過少であることを知りながら、敢て同金額を申告したのであるから、被告人にほ脱の犯意があつたことは明らかである。論旨は、理由がない。

九、趣意第二点の第七について。

(一)  趣意第二点の第七の一、補充(第一)第六および同(第二)第六の主張について。

イ、本件謝礼金は、事業所得に属するとの主張について。

被告人の手形割引収入が事業所得に属することは前記(五の(一))説示のとおりである。

しかしながら、原審第六回公判調書中の証人砂山清進および同第七回公判調書中の同三輪悟朗の各供述記載によると、本件謝礼金は、後藤観光株式会社からの依頼に基づいて、被告人が不動信用金庫に対しいわゆる導入預金をなしたため後藤観光株式会社から被告人が支払いを受けたものであることが認められる。したがつて、本件謝礼金が被告人の手形割引事業から生じた所得であると認められないことは明らかである。所論は、採用できない。

ロ、不動信用金庫に対する定期預金が同金庫の支払停止により貸倒れになつたとの主張について。

前記証人三輪悟朗の供述記載によると、右金庫は、昭和三八年一一月支払停止をしたため、全国信用金庫連合会、全国信用金庫協会、東京都信用協会が、大蔵省などと相談して善後策を検討したが、その後同年一二月ころになり、中央信用金庫の小野理事長が単独で不動信用金庫を管理し、その対策を講ずることとなり、翌昭和三九年に入つて、小口預金者に対しては全額を、被告人ら大口預金者に対しては預金額の三割を支払い、事実上中央信用金庫が不動信用金庫の業務および債権債務を引継いだ形となつたことが認められる。

右認定の事実関係のもとでは、不動信用金庫が支払停止をなした昭和三八年一一月の時点では被告人の同金庫に対する預金債権が回収不能になつたとは認められないから、同時点で貸倒れになつたということはできない。

(二)イ、趣意第二点の第七の二の1の主張について。

所論は、不動信用金庫が昭和三八年一一月支払停止をした時点で被告人の預金債権が回収不能になつたことを前提とするものであるが、その然らざることは、前段説示のとおりであるから、採用することができない。

ロ、趣意第二点の第七の二の2の主張について。

旧法においては非営業貸金の元本の貸倒れによる損失は、必要経費とは認められていなかつた。しかし、このような資産から生ずる収益には課税しながら、その元本に係る損失を考慮しないことは、税負担が過重となる場合も考えられるので、法第五一条第四項が新にもうけられたのである。そうだとすると、同条項は、所論にいう創設的規定であつて、確認的規定であると解すべきではない。所論の引用する判決は、本件と事案を異にし、本件に適切でなく、これをもつて右判断を左右すべき理由とはならない。

(三)  趣意第二点の第七の三の主張について。

本件謝礼金が貸倒れになつたと認むべきか否かについてさきに説明した事情に照すと、これを所得税の対象である所得と考えたり申告義務があると考えたりすることが証拠上通常人には期待しえないものであるとは認められない。趣意第二点の第七、補充(第一)第六および同(第二)第六の論旨は、理由がない。

一〇、趣意第二点第八について。

(一)  趣意第二点の第八の一の主張について。

治外法権者でない居住者は、非課税所得以外のすべての所得について申告義務があることは、前記(一、(二)イ)説示のとおりである。給与支払者において源泉徴収の方法によつて賦課徴収しなかつた給与所得については、給与所得者において申告すべきであることも前記説明のとおりである。

(二)  趣意第二点の第八の二の主張について。

原審第一一回公判調書中の証人斉藤みつ子の供述記載に被告人の昭和四二年二月一六日付検察官に対する供述調書を綜合すると、本件女中二名は、被告人が雇入れたものであつて、平素は被告人方の家事に専ら従事し、東京特殊鋼株式会社(以下会社という)が多忙な折、時折会社の用務を手伝つていたに過ぎないことが認められる。また、右証人斉藤みつ子の供述記載と昭和四一年六月一〇日付大蔵事務官の被告人に対する質問顛末書を綜合すると、右女中らに健康保険の被保険者資格を取得させるため、同人らが会社の会社員であるような形式をとり、同人らに本件給与を支給することにしたが、その際同人らに給与として支給すべき金員の捻出の方法として、被告人が会社から支給を受けていた給与を多少減額し、その減額分に相当する金員を会社から右女中らに給与として支給する形式をとることにしたことが認められる。会社が女中らに支給した給与が給与名義の単なる寄付金であるというが如き主張はとることはできない。

(三)  趣意第二点の第八の三、同補充(第一)第七および同(第二)第七の主張について。

本件給与収入のうち、女中給与分以外の金員について被告人と会社との間に消費貸借が成立していなかつたことは、被告人が検察官および大蔵事務官に対して供述している(被告人の昭和四二年二月一六日付検察官に対する供述調書、昭和四一年六月一〇日付大蔵事務官の被告人に対する質問顛末書参照)ところである。そればかりか、会計記帳面においても会社において本件金員を貸付金として処理したことがなく、被告人も借入金として計上処理していない。そのほか、原判示のような理由からして、昭和四一年三月二九日付の会社の取締役会議事録の成立および内容が疑わしく、したがつて果して同日同議事録記載のように取締役会が開かれ、決議がなされたかも疑問である。これらの点を合わせ考えると、被告人と会社間には本件金員について消費貸借はなかつたと認めるのが相当である。

趣意第二点の第八、補充(第一)第七および補充(第二)第七の論旨は、理由がない。

一一、趣意第三点について。

被告人の本件犯行の手段方法は、極めて計画的である。ほ脱税額も三年間で合計八、三〇〇万円を超過するほどの高額であり、脱税をするに至つた事情についても特に宥恕すべきものが認められない。したがつてその責任は、重大である。

もつとも被告人は、本件について修正申告をなし、約四、〇〇〇万円を納付し、現在深く反省改悟の情を示し、今後は適正な納税をすることを誓つている。そればかりか、被告人には前科、前歴が全くない。

しかしながら、被告人の前記責任の重大性に徴すると、右の事情や被告人の性行、経歴、社会的地位、家庭の状況など、被告人に利益となるべきすべての事情を考慮しても、なお、原判決の量刑は、重過ぎるとは認められない。論旨は、理由がない。

よつて、本件控訴は、理由がないから、刑事訴訟法第三九六条によりこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 三井明 判事 石崎四郎 判事 四ツ谷巌)

昭和四四年(う)第一八五七号

所得税法違反 斉藤博

右の者に対する頭書被告事件について、別紙のとおり控訴趣旨書を提出する。

昭和四四年一〇月一一日

右被告人弁護人 真鍋薫

東京高等裁判所第六刑事部

御中

控訴趣意書

第一点 原判決には所得税法所定のほ脱犯に関する規定(昭和四〇年法律第三三号による改正前の法(以下旧法という)六九条一項、昭和四〇年法律第三三号(以下新法という)一〓〓八条一項)の解釈適用の誤りないし理由不備のはくいちがいがあつて、その誤りが判決に影響を及ぼすこと明らかである。

第一 構成要件について

一、原判決は「被告人は………自己の所得税を免れる目的をもつて、架空名義を用いた預金口座で割引手形を取立てる等の方法により所得を秘匿した上、………年分の実際総所得金額は………でこれに対する所得税額が…円であつたのにかかわらず、………麻布税務署長に対し、………年分の総所得金額が………円でこれに対する所得税額が………円である旨の虚偽の確定申告書を提出し、よつて………差額………円を法定の納付期限までに納付しないでこれを免れ………た」と判示される。

しかし、右判示はほ脱犯の構成要件事実の摘示としては不十分なもので、それは法令の解釈適用の誤りか、理由不備、そごがあつて違法であると考える。

二、ほ脱犯が成立するための構成要件事実は、本件に即していえば、左のとおりである(特に限定しない限り旧、新法を通じて)。

1. 所得税額の存在

2. 確定申告義務の存在と不履行

3. 詐偽(いつわり)その他不正の行為の存在

4. 所得税の免脱の結果の発生

右にいわゆる所得税額は、旧法二六条三項、新法一二〇条一項にそれぞれ規定するものであるが、そのなかには、利子、配当、給与等の所得等の如く、源泉徴収の方法により納税する所得税をふくむけれども、その税額は源泉徴収され、又は決定された分以外はふくまれないと解すべきである。本件の場合において、配当所得にかゝる源泉徴収税額を右の所得税額に加算して算出することは許されるけれども、給与所得にあたるものとされて判示された所得(いわゆる認定賞与分)にかゝる源泉徴収前の、税法による計算上の源泉徴収税額をこれに加算することはできず、これをふくめてほ脱税額を算出することは誤つている。

給与所得にかゝる所得税は、給与支払者において、支払の際源泉徴収して、これを税務署長に納付し、もし支払の際源泉徴収をしないときは、税務署長は徴収決定により源泉徴収義務者より徴収し、源泉徴収義務者は給与所得者に請求して取り立てることゝされているのである(旧法三八条、四三条、新法一八三条、二二一条、二二二条)。すなわち、給与所得者の所得税は源泉徴収義務者が源泉徴収の方法により又は税務署長の源泉徴収義務者に対する徴収決定によつてのみ課税徴収されるものであつて、給与所得者が直接署長に申告したり、税務署長から徴収決定を受けるということはないのである。もちろん、この税金は実質的には給与所得者の所得税であるので、源泉徴収により徴収された限度においては、確定申告の際には既納税額とされ、右の所得税額に算入され、しかるのち源泉徴収税額は控除されることになる(旧法二六条三項六号、四項、新法一二〇条一項五号、三項、参照)。しかし、源泉徴収されていない段階で、かりに給与所得者に認定賞与たる給与所得があつたとしても(被告人はその事実の存在を否定すること後述のとおり)、給与所得者としては所得税納税義務はもちろん申告義務も負わないものであるから、その分については、右の所得税額に算入されるべき筋合ではないのである。

このことは、税法罰則の規定方式を見ても理解できることなのである。すなわち、旧法六九条の二は「三八条の規定により徴収せられるべき所得税を免れた者」を処罰する旨規定しているが、これは、源泉徴収の方法で課税される所得税につきこれを免れた場合当該所得者のほ脱行為を罰するものである。したがつて、例えば、被告人を認定賞与にかゝる源泉徴収税額について処罰しようとするならば、本条によつてすべきことゝなるのである。又、六九条の三は源泉徴収義務者の源泉徴収所得税の不納付を処罰する規定であるが、それが所得税負担者たる給与所得者と相談するものでないことは明らかであろう(新法についても同様で、二三九条、二四〇条参照)。

本件の場合、被告人の申告当時、給与支払者に源泉徴収の事実のない給与所得にかゝる分について、旧法六九条、新法二三八条に該当するほ脱犯ありとすることは、同条の解釈適用を誤つたか理由不備、くいちがいの違法があるに帰するものと考える。

三、本条によるほ脱犯は、故意犯である。しかして既遂に達する時期は、本件に即していえば、確定申告書を提出した時ということができよう。したがつて、その時点において被告人において確定申告義務の存在とその不履行の故意がなければならない筈である。

しかるに、原判決は、犯罰既遂の時点において被告人が確定申告義務が存在したことを認識していたかどうか、それが存在するとして被告人に詐偽義務違反の認識があつたかどうかについてなんら判示をされていない。原判決は「所得税を免れる目的で、………等の方法で所得を秘匿したうえ」と判示されるが、申告前にいかにそのような事実があつても(被告人はその事実の存在を否定すること後記のとおりである)、確定申告の時に過少申告の認識があつたかどうかを判示しなければ、事実摘示として不十分の機を免れない。「………円であつたにかゝわらず………虚偽の申告書を提出した」との判示は単に、その客観的事実の叙述であつて、それが、被告人の主観といかに結びつくかについての判示とは理解することは困難だといわざるをえないのである。

所得は、個人の一年分の数多くの取引(損益取引であつて、内部、外部を問わない)の集積のなかから算出されるものであつて、たとえ、期首、期中において、ほ脱の犯意があつたと認定されたとしても、期末決算の段階で損失があれば、ほ脱犯は成立しないのであるから、申告の時に、過少であることの認識が被告人にあつたことを判示することは、必要不可欠のことなのである。

要するに、原判決は、旧法六八条、新法二三八条の構成要件事実の摘示に不備があり、それは同条の解釈適用を誤まつたか、理由不備またはくいちがいがあることに帰するもので、違法といわざるをえない。

四、詐偽その他不正の行為とは、積極的な行為を要するとされていることは周知のとおりである。しかして、このことについては二つの方面から考察することを必要とする。一つは積極的な行為ということの相対性の問題であり、他は不正の行為という場合の評価基準である。前者についていえば、二重帳簿を作成し、架空仕入を計上する等の如く、行為自体に積極的内容をふくむものは疑問の余地がないが、例えば、売上があるのに拘らず、記帳しないという行為はどうなのであろうか。又、帳簿を全く作成しないという行為は積極的行為といえるのであるか。もしこれらの行為を積極的行為だとするのであれば、何に対して積極的なのかを定めておく必要がある。すなわち、積極的な行為という場合、それは、納税義務の免脱という基準を予定しているということなのであろう。納税義務と全く無関係に(例えば友人からの借金申人をおそれて、虚偽の損失の記帳をした帳簿を作成する如き)積極的行為に出でても、こゝにいう積極的行為にはあたらぬというべきであろう。次に後者については、不正の行為という法律用語からすれば、社会通念上許されない又は禁止されている行為という意味に理解すべきであろう。単に不都合だとか、けしからんという程度では足りないというべきである。例えば、仕入の架空計上が不正の行為とされるのは、正規の簿記の原則による記帳義務が法定されている(旧法二六条の三、新法一四八条、法人税法二二条四項、一二六条、商法三二条以下参照)ことによるというべきである。したがつて、例えば、無記名定期預金のように課税官庁から見て課税上不都合で、けしからんことだとされているものであつても、このことをもつて不正の行為というわけにいかないことはもちろん、架空名義の預金とか、上様あての請求書、領収書のように実際界において広く用いられて何ら怪しまれないような会計取引慣行も又「不正の行為」というわけにはいかないのである。

原判決は、「架空名義を用いた預金口座で割引手形を取り立てる等の方法により」として不正の行為を判示しているもののようであり、それは主として手形割引収入についてしていると思われるが、右の二つの評価基準に照らすと、事実摘示として不十分といわねばならない。前者についていえば、原判決はもちろん、「所得税を免れる目的をもつて」と判示しているが、被告人の供述にあるとおり、対税金問題として架空預金にしたものでないことは終始供述を変えておらず、専ら自己の財産を他の第三者から秘匿したいという自己防衛の本能にいでたのであり、したがつて、納税義務の免脱という基準から見れば、架空預金の設定自体はほ脱犯の面から見て、積極的な行為というわけにはいかないのである。

このことは、架空預金の設定とその利用方法から見ても首肯できるところであろうと思われる。すなわち、単なる普通預金口座で架空名義にしたり、無記名定期預金にしたりする場合においては、その預金債権者が甲なのか、名義人の乙なのかは銀行としてもわからず、したがつて税務署にもわからず、税金秘匿の目的を遂げることはできないことはなかろうが、被告人の架空預金口座は、手形取立に利用するものであるから、当然銀行としてはそれが被告人のものであることは知らなければならず(手形取立の信用性からいつて銀行として当然のことである)、したがつて銀行が、税務署から、被告人との取引内容を調査を受けることになれば、いわゆる架空口座も明らかにすることになるのであり、本件においてはそのように調査に応じているのである。換言すれば、本件における架空口座の設定は、税金を秘匿する目的のためには何らの役に立ちうべき行為になるものではなく、専ら取引先、同業者等から取引内容を知られないということの目的に出でた行為なのである。

要するに、架空口座の設定という「行為」だけで、積極的行為ありとすること不十分なわけで、その場合には納税義務の免脱という基準からして積極的かどうかを明らかにしなければならず、それについての判示において、原判決は欠けるというべきで、これは、法令の解釈適用の誤りか理由不備、そごないし事実誤認に基くもので違法であるといわざるをえない。

次に後者の点について、架空名義の預金口座は世上常に行なわれるところであつて、それ自体「不正行為」とされるべきものではない。一般に金融機関としても、形式上の預金者数の増加を来たすので、歓迎するところであり、預金者としても、前記のように取引先、同業者等との取引関係の秘匿のため又は財産保全(借金とか犯罪防止)のために屡々利用することであつて、取引上の秘決ともいうべきことで、これは殆んど公知の事実に属する。

特に被告人の場合は、取引銀行は、日本信託銀行下谷支店と三井銀行日本橋支店であつて、両支店には本名の預金口座があつて、架空名義の分もすべて被告人のものであることは、銀行において承知していた(前記のように、現金の預入だけでなく、手形取立に利用したのであるから、銀行側としてはこれを承知する必要があつたのである)のであつて、課税庁が銀行について調査すれば当然架空名義の口座も明らかになるようになつていたのであるから、課税庁にとつて、右の架空口座が不都合だということもありえないのである。

原判決が、右の行為を不正の行為として判示される点は、事実摘示として、それ自体不十分で、理由不備の違法があるというべきである。

なお、原判決は「………取り立てる筈」と判示しているけれども、事実摘示として不十分であつて、その点においても理由不備の違法ありといわざるをえない。

五、次に、詐偽その他不正の行為は、いかなる所得についてあることを要するか換言すれば、過少申告のすべてについて不正の行為を必要とするかの問題について考えて見たい。原判決は、被告人の所得のうち、手形割引収入に関する部分についてのみ前示のように「不正の行為」として判示するものの如くであるが、ほ脱にかゝる各所得分類毎にしたがつてこれに対する税額すべてについて個々的に(厳密にいえば各取引毎に)、これを要すると解すべきである(こゝでいうのは、犯意の問題ではなく、構成要件充足の問題である)。

原判決は、被告人の所得を、配当、不動産、事業、譲渡、給与および雑所得とし、これらすべてについてほ脱犯の成立を認め、それらに対する「不正の行為」として、前述のとおり判示している。しかし、右の行為は事業所得とされた手形割引についてのみの「不正の行為」であるとすることは窺われないでもないが、その他の所得については、何ら「不正の行為」の判示はない。したがつて、他の所得分類に属するものについて、ほ脱犯の構成要件事実の摘示がないことに帰着するのであつて、理由不備があるといわざるをえない。以下、この点について述べることゝする。

法人税の所得は、益金から損金を控除した金額による(新法二一、二二条)とされているので、これについて「不正の行為」があるというときには、所得の分類による問題は原則として(しかし、例えば、その法人に源泉徴収義務の不納付についてほ脱犯の成否を問う場合には(旧法六九条の三、新法二四〇条)、別個にそれについて「不正の行為」を要すると解されるが、そのような例外の場合を除いては)生じない。しかし、所得税法は、所得を分類しており、それらの所得はそれぞれ発生原因を異にし、したがつて課税方式(課税標準、税率、徴収方法等)を異にする。事業所得と譲渡所得とが全く別異の性質を有し、事業所得と給与所得とが別個の課税方式をとつていることは何人も承知しているところである。したがつて所得税法が、各所得をまとめて、一個の申告書をもつて申告することゝ定めているのは、単に計算上の便宜に基くもので、本来各所得毎に課税関係を設定するのが理にかなつているというべきである。さような観点からすれば、すくなくとも、各所得分類毎に税を免れようとしたかどうか、そのような積極的行為があつたかどうかを確定することは当然の論理上の前提となるべきものである。事業所得についてほ脱の目的で二重帳簿を作つたとしても、他の、例えば譲渡所得について計算違いのため結果的に過少申告になつたときに、その後者の分までほ脱の巻き添えにすることの不合理は多くを論ずるまでもなかろう。

このことは、次のことからも論証できる。例えば、事業所得について青色申告の承認を受けた者は、その所得について仮装いんぺいの帳簿記載等一定の取消事由のない限り青色申告の承認を取消されるという不利益は受けないし、重加算税算税という行政罰は、その取引について仮装いんぺいの事実のあつた場合に限りこれを受けるものとされている(国税通則法六八条)。しかるに、ほ脱犯という刑事処分の対象となる構成要件事実の充足の点で、「不正の行為」のない所得分類に属する分についてまでほ脱犯の責任を負わせることができると解することは極めて権衡を失するものであり、したがつて、「不正の行為」は、各所得分類毎にこれを要するというべきであり、この見解をとらない原判決はその点で誤まつているといわざるをえない。

六、所得を免れるという結果の発生について、通説、判例は、免れるというのは、課税権の行使を不能ないし著しく困難にすることとしている。これによれば、課税庁は課税ができなくなるかそれに近い困難性の存在の結果を生ずるものでなければならない。単なる申告書の不提出や、源泉徴収所得税の不徴収(旧法六九条の四、新法二四〇、二四一条)と異なる点はそこにあるというべきである。

原判決は、「………虚偽の確定申告書を提出し、よつて………円を法定の納付期限までに納付しないでこれを免れ」と判示される。しかし、右の事実摘示をもつて、さきに述べた免脱の結果の発生の事実説示としては不十分なこと明らかであろう。けだし、単に虚偽の確定申告書を提出した行為を摘示し、免脱の結果発生の事実として「納付期限までに納付しないで」免れたとしているに止まり、そのことからは、課税権の行使を不能ないし著しく困難にしたことの事実摘示にはならないからである。

被告人は、すでに各年度分について修正申告を済せて、納税義務を履行している。すなわち、課税権の行使が不能になつた事実はもちろん著しく困難になつた事実は全くないこと原審における被告人の供述により明らかである。

原判決はこの点について法令の解釈適用を誤まつたか、事実誤認をした違法を犯しているものといわざるをえない。

第二 犯意について

一、犯意は、犯罪構成要件事実の認識を指すものであり、換言すれば、構成要件の客観的外部的要素を具備した事実について認識されていることをさすものである。

原判決は被告人に右のような犯意があつたとの前提で判決をしているが、それは、法令の解釈適用を誤まつたか、理由不備ないしそごがあるか又は事実誤認に基くもので、判決に誤りあること明らかである。

二、ほ脱犯の犯罪構成要件たる客観的、外部的要素を構成する事実は、前記のとおり

1. 所得税額の存在

2. 確定申告義務の存在と不履行

3. 詐偽その他不正の行為の存在

4. 所得税の免脱の結果の発生

である。したがつて、ほ脱犯既遂の時点で、これらの事実について被告人が認識していない限り被告人は犯意がないというべきである。

詳細は各所得について述べる各論の部分に譲ることとするが、被告人は右の12について全く認識はなく、3の点についても前記のとおり不正行為のない以上これを認識したとされるべきいわれれなく、いわんや4の税免脱の結果発生について認識をもちえないことは理の当然である。

三、確定申告をすべき所得税額の存在の認識とその不履行についてであるが、被告人が第一審において述べたとおり、全く認識をしていなかつたのであつて、これを否定して犯意を認めた原判決には承服しがたい。一、二の例について述べると、原判決は配当収入について概括的認識を有していたと判示するが、概括的認識とは、計数的にほ脱税額を的確に認識していなかつたけれどもほ脱するの認識があつたとのことを指すものであつて、申告すべき所得税であるかどうか、その不履行であるかどうかについての認識に関し概括的認識なるものは存在しない筈である。原判決のいうように配当収入自体を認識したとしても、それが申告すべき所得だとの認識のない以上、概括的認識の下に犯意を認めるべき筋合ではない。

又、原判決は手形割引収入について、申告義務の存在についての認識に関し、仮名預金を用いたことを犯意の一徴表として認定し、手形割引収入の認識をもつて犯意ありとの根拠としている。しかし、仮名預金の必要性は先に述べ(後にも述べる)たとおりで、十分合理性があるのであり、手形割引収入の認識は決して申告義務の存在の認識と同一ではないのであるから、原判示の事実によりこの点について犯意を認めることは誤まつている。

四、もちろん、被告人は、ほ脱犯にあたるとされた各取引について認識をしていたことは認めるのであるが、被告人としてはそれが申告義務を負う所得を構成する取引とは考えていなかつたのである。このことは、いわゆる個人元帳(符号15の1ないし4)をはじめ、各帳簿にすべて記帳していることからも窺うことができるのである。もし、ほ脱の犯意があつたとすれば、このように、ほ脱とされる分を克明に記帳しておく筈はないのである。個人元帳等の存在と被告人の供述等とを合せ考えれば、取引自体、所得自体を被告人が認識していても、そのことのみをもつて犯意ありとするわけにいかず、これを否定して犯意ありとした原判決には違法があるというべきである。

五、被告人としては、原判決の認定事実について承服するものではないが、仮りに原判示のとおりとしても、ほ脱犯とされた各所得について被告人は申告義務があるとは考えず、申告義務の存在について誤解をしていたのである。すなわち、構成要件事実の内容たる法律的詐為義務について誤まつていたのであるから、事実の錯誤があつたというべく、したがつて犯意を阻却するというべきである。

仮りに、事実の錯誤でないとしても、被告人が本件過少申告の結果を招いたのは、それが許されないこと、申告義務が存在し、その不履行が許されないことを知らなかつたことによるものであり、許されないことについての認識がなかつたのである。そしてそのことについて容認されるべく相当の理由が各所得についてあつた(後述する)のであるから、犯意は阻却されるものである(大判昭和七・八・四、刑集一一巻一一五七頁、昭和一三・一〇・二五、刑集一七巻七五六頁)。

六、次に詐偽その他不正の行為についての認識であるが、原判決は、この行為として、架空名義の預金口座の利用を認定しているということができる。その他は単に「等」として具体的に判示しない。したがつて、判示の行為があつたのは、手形割引収入にのみ関するものであり、それ以外の所得分類に関するものについては、何ら積極的行為がないことになる。

この点については、構成要件について述べたとおり、他の所得分類についても「不正の行為」を要すると解すべきであるから、この点について判示を欠く以上、犯意のあるべき筈はなく、したがつて犯意なき過少申告につき不当にほ脱犯をもつて律したというべきである。

七、最後に、所得税免脱の結果の発生についての犯意であるが、これまでに述べたところから明らかなように、被告人自身は、原因となるべき行為について認識がないのであるから、結果の発生について認識のないのは理の当然であり、したがつてほ脱犯の犯意はこの点についても存在しないものといわねばならない。

第二点 原判決は下記各収入について、被告人にほ脱犯の成立を認めているが、それは旧法九条、新法二四条、二六条、二七条、二八条、三三条、三五条等の解釈、適用に誤りがあり、判決の理由に不備ないしくいちがいがあり、又は事実誤認があり、それらは判決に影響を及ぼすことあきらかである。

第一 配当収入について

一、原判決は、「被告人は本件において虚偽過少申告の概括的認識を有していたのであり、右配当収入自体も認識の対象としていたことは明らかである」と判示される。

しかし、ほ脱犯が成立するためには、前記のとおり、申告義務の存在とその認識を要するところ、被告人においてこれを欠くことは原審における被告人の供述にあるとおりであり、したがつてほ脱したとされる配当収入については犯意を欠くものであり、かりにその点について錯誤があつたとすれば次のような事情があるのであつて、それは犯意を阻却するに足る「相当の理由」であるというべきである。すなわち配当所得について申告をしなかつた株式は、すべて昭和三七年以前に行つていた株式売買による株価の騰落を目的とする取引の一部である。これらの株式は当時の商慣習ですべて証券会社名義で証券会社において処理し、被告人としては、電話等で売買を指図し、現物の管理すらしていないのである。もし、当該株式について配当期日を迎えると、証券会社において手続の上配当を受けるよう操作し、適宜被告人に通知するという方法がとられていた。したがつて、これらの株式については、配当そのものは眼中になく、この金額を気にすることもないので、長期保有の資産株として手許にある申告済のものとは全く関心の程度が違うものである。極端にいえば、申告しなかつた株式の配当はむしろ被告人のものという感じからは遠く、資産株のそれとは全く異なつたもので、すべて証券会社の処理に委し、税務の手続はすべて終つているものと考えたといつてもよい位なのであるから、これについて申告を洩らしたとしてもやむをえないといわねばならない。

二、原判決は昭和三八年分の配当所得の必要経費として被告人が確定申告において計上しこ借入金利子を「株式取得のための借入ではないから否定する」と判示される。

しかし、株式取得のための借入金があり、その利子負担のあることは被告人の供述から窺えないわけではないから、原判決には重大な事実誤認があるといわざるをえない。

原判決は、借入金の存在そのものは否定しているわけでないから、被告人の負担となる利子のあることは認めざるをえない筈である。しかして右の借入金が家事(関連)費のためのものでないことは記録に徴し充分認められるものであるから、結局被告人の所得の控除項目としての必要経費に算入されるべき性質のものである。原判決は借入金の存在と金利負担そのものを認定したのに拘らず、単に株式配当収入の必要経費とならぬとして、これを否定しているけれども、右のように、被告人の全所得からいつて必要経費性を有する以上、当然収入金額から控除すべきものである。それをしないのは、法律に定める以上の納税義務を被告人に認めたことになり、租税法律主義に違反するものといわねばならない。

その場合、被告人のどの所得の必要経費であるかを認定する必要があるというのであれば、すべからく、釈明権を行使してこれを明確にした上で判断すべく、この方法をとらない原判決は審理不尽の違法があるといわねばならない。

三、配当収入について、被告人には詐偽その他不正の行為はなかつた。被告人以外の名義にしたのは、右に述べたように、株価の騰落による利益を目的とする場合世間一般に行なわれていることであつて、それは決して税法的観点からして許されない不正の行為とはいえないからである。のみならず、それらの名義使用はすべて証券会社において勝手にやつたことであつて、被告人の関知するところではないのであるから、被告人のなした行為とはいえないのである。

第二 地代収入について

一、原判決は、神田鍛冶町所在の土地について

1. 昭和三八年度については、「簿外の………収入」といゝ、「土地所有権について訴訟が係属していたが、被告人は現実に地代として受領しており、自らの所得に帰せしめている」と判示し(別紙第四、5)、

2. 昭和三九年度については「簿外不動産の賃貸収入)といゝ、「(別紙第四、5参照)」と判示し(別紙第五、5)、

3. 昭和四〇年度については「期中における不動産の賃貸収入計上洩を加算する」「(別紙第四、5参照)」と判示し(別紙第六、5)ている。

しかし、原判決は左の諸点で誤つているといわざるをえない。

二、原判決は「簿外」「計上洩」という表現をしているけれども、何を基準にしているのか判然しないし、各年度の判示方法が区々であつて、理解に苦しむものであるが、被告人はこれらの所得をすべていわゆる個人元帳に記帳しているのであるから(符号15の1ないし4)、原判決のいうような「簿外収入」の認定を受けるべきものではなく、原判決はこの点で事実を誤認しているといわざるをえない。

三、原判決は「現実に地代として受領している」ことをもつて所得の発生時期と判断しておられる。しかし、現実に物理的に金銭の授受があるということと所得の発生時期とはことなる。本件土地については、係争年度中訴訟が係属していたのであつて、その所有権は被告人としては確定していなかつたのであり、したがつてその間地代として受領したものが確定的に所有権者、賃貸人として地代収受権があるものか、それが否定されて返還をしなければならないものであるのかは、いずれとも断定できない性質のものである。この訴訟はその後和解をして、土地所有権は相手方に移し、貸金の返還をうけ、それまで地代として被告人が収受していたものは被告人のものとすることになつたのである(被告人の供述)。したがつて、右地代として授受された金員は、和解成立するまでは、被告人の預り金であって、和解成立の時に地代収入として権利が確定するものである。したがって原判決が現実収入主義に立つて地代の収益の計上時期を判示したのは、誤りであるといわねばならない(解約手付につき同旨、最高裁昭和四〇年九月八日、刑集一九巻六号六三〇頁)。

第三 手形割引収入について

一、手形割引収入は所得の分類としては雑所得に属すると認むべきで、これを事業所得とした原判決は所得分類について所得税法の解釈適用ないし事実認定を誤つたものといわざるをえない。その根拠は原審弁護人の主張のとおりで、これを援用する。

二、原判決は、所得の発生時期の判断において誤つている。原判決は、「手形は振出人に対する一定額の金銭債権を化体した有価証券であつて、その証価はあくまで手形金額によることを原則とするものであり、これを割引により手形金額以下で取得した場合には、手形金額と取得額との差額について手形割引収入が構成される。ところで、企業会計上の発生主義の立場からは主たる営業活動による収益は、それが用役の対価である場合には、時の経過とともに発生すると認識されるのであり、従つて手形割引の前受収益についても、期間対応分を収益に計上すべきことが原則とされるのである。税法上継続企業たる法人の手形割引の前受収益については右企業会計上の認識と同様の基準においてこれを把握すべきものと解されるが、所得税法上においても、特段の事情がない限り対価を得て継続して行なう事業については、用役の対価として収入すべき金額は、時の経過とともに確定するものと解すべきである。本件に正に手形割引業に関するものであつて、その事業収入は、右に述べた原則に従い、割引以降、時の経過とともに日々実現し、期間対応分が当該年度分の収入金額となり、未経過分は翌期に繰延られると解するのが相当である」判示される。

原判決の「手形金額と取得額との差額について手形割引収入が構成される」との点は、その表現の限度では必ずしも異を唱えるものではないが、先ず手形割引とは何かについて考えて見る必要があろう。手形割引の法的性質については現在では、手形の売、買であるとすることは定説といつて差支なかろう。すなわち、手形という有価証券の売買であつて、取引はその時において終る。その点で、手形貸付の方法により金融の利便を受ける場合の法的関係とは異る。後者は手形を媒介として当事者間に金銭の消費貸借が行なわれるのであるから、手形の期間に対応して、当事者間に日々利息について利益と損失が発生することになるのである。すなわち、手形貸付においては、前受収益とか、前払損失とかの期間計算が必要となることは当然のことであるといえよう。しかし、手形割引は手形そのものの売買であるから、手形金額とか手形関係者(振出人、裏書人、保証人等手形面上の関係者)の信用度、市中金利等のすべてを綜合して、売買価格を決定し、そこで手形と金銭との相互授受が行なわれてしまつて、その後はその当事者とは法律関係を生じない(別途に新たに売買が行われれば別である)のである。すなわち、手形割引においては、売買の時において当事者間の法律関係は終結し、手形貸付のように、手形の満期日による利息の計算が問題になることはないのである。このことは税務当局の見解でもあることは麻布税務署の小倉係官から指導を受けた旨の被告人の供述(昭和四四年三月二七日)でも明らかである。

原判決は、手形割引についての収益の計上時期について、期間計算によるべき旨を判示するが、手形割引を手形売買とする以上、期間に対応して収益が発生すると観念する必要はないのである。原判決は、企業会計上の発生主義によれば、用役の対価であれば、時の経過とともに収益は発生するものとしているが、手形割引が手形貸付とことなり、用役の対価という観念を入れる余地はないのであるから、手形割引に期間計算による収益の算定ということを考えることは誤つており、「手形割引の前受収益」という原判示はそれ自体矛盾しているのである。原判決は法人の手形割引について期間計算によるものであると解すべきである旨判示するが、右のように解すべき根拠は何らない。手形割引と手形貸付を混同していることによるものではないかと思われる。

原判決は、本件手形割引は事業としてなされたものであると認定し、法人と同様に期間対応の計算をすべきであるというが、前提において誤解のある以上、この結論の首肯しがたいこともちろんである。

なお、継続企業の場合においては、一定期間の成果を正確に測定することが必要であつて、その一方法として一般に発生主義(税法上の表現として権利確定主義)によるべきものとしているのであるが、他方、計算方法を継続する。いわゆる継続の原則も必要なのである。ところで、被告人は、従来とも手形割引については、割引時において手形金額と割引額との差額を、一挙にその時をふくむ事業年度の収益に計上してきたのであるから、その方法を認めてこれを引続き継続しないと、正確な期間利益は測定できないのである。右のように継続の原則の上からも被告人の計上の方法はそのまゝ推持さるべきである。

三、原判決はほ脱の犯意について、法令の誤解ないし事実の誤認があり、違法である。

ほ脱犯の犯意は、その構成要件たる外部的客観的事実の認識をいうものであつて、それは所得税義務の存在、申告義務の存在とその不履行および詐偽その他不正の行為ならびに租税免脱の結果についての認識をさすものであり、それは既遂の時期において存在することを要することすでに述べたとおりである。

1. 先ず、所得税債務の存在については、被告人は手形割引については無税であると確信していたもので、これは、原審における被告人の供述にあきらかである。原判決は、「証人、川名馨、松原俊雄、夏目喜八郎(第一回)、柴崎栄、高木清一、増渕忠治、大森康彦、平賀五郎らの各証言によつても、被告人の取引先ないし手形割引業界において、手形割引収入が法律上無税とする旨説明した事実はなく」と判示されるが、事実誤認ないし証拠に基かない事実を認定したものといわざるをえない。例えば川名証人は、日証、東京大証が税金がかからないという宣伝をして投資家をつのつておつたということは確かにその当時はあつた、日証がその旨のパンフレツトを出していたということを聞いた、等と述べており、夏目証人は、日証、東京大証は税金を払わなくてもよいと宣伝し、人はこれを信じたと思う等と述べており、柴崎証人は、大阪の方の販売方法で、パンフレツトか何かで税金のことは一切心配しないでいいというような内容のものをお客さんに郵送しているのを見た、日証、大証の 非課税の宣伝が原因と思う等と述べており、平賀証人は、斉藤に無税であるといつた三七年春パンフを回収したが他業者の圧力による、安全、確実、有利が投資の三原則で、換金性と無税をいつていた、と述べているのであつて、右の原判決の認定は誤つているといわざるをえない。

又、臼井証人は、東京大証の責任者の一人であるが、有価証券だから無税である、無記名で無税だと宣伝した、斉藤にもその旨をいつたことがある旨述べているのであつて、原判決のいうように「証人臼井康雄の証言によれば、証券業界の一部で販売員が手形割引は無記名、無税である旨(手形の割引収入が仮名等により国税当局に把握されずに申告外とされれば無税となるにせよ)誇大宣伝をした例がないではなかつた」というような証言をしたものではないのである。

要するに、手形割引が無税であると被告人が信ずるについては、右のように当時の業界の実情からして十分首肯できる資料があるのであつて、被告人がかく信ずるについて「相当の理由」があるというべきである。もし、被告人にして無税だと確信していないとすれば、これらの取引を逐一いわゆる個人元帳に記帳しておく筈はないのである。被告人は個人元帳のうちから所得税債務のあるものとないものとを選別して前者と考えられるものを申告しているのであるから、被告人の無税の確信と相当性は優に認定できるものである。原判決はこの点において事実誤認ないし証拠によらない事実認定をした誤りがあるといわざるをえない。

2. 次に、原判決は「手形割引収入を認識し、本件納税申告にあたつて該申告額が虚偽過少であることを認識していたと認められる」と判示される。

しかし、さきに述べたように、手形割引収入を認識していても、それについての所得税債務の存在の認識がない本件においては(所得税債務の存在について誤認があり、その誤認に相当な理由がある本件においては)、当然に、原判決のいうように虚偽過少の申告であることの認識があつたとせられる筋合にはない。被告人が、手形割引収入について申告義務を怠るとの不作為に出でたのは、所得税債務の不存在を確信し、したがつて申告義務履行という法律上の作為義務を認識しなかつたことによるものである。したがつて、原判決のように、虚偽過少の申告であるとの認識を被告人が有していたと認定することは、法令の誤解ないし事実誤認があるといわざるをえない。

もつとも、過少申告の犯意は、いわゆる概括的で足るとし、原判決もこの立場をとるかの如くであるが、概括的犯意ということの意味を確定しておく必要がある。概括的犯意とは、例えば、群衆に対する発砲によつて何人かが殺害された場合、その被害者に対する明確な犯意がなくても殺人罪とされるというようなことをいうとされているが、この場合には、特定人についての認識、人数についてのそれがないにしろ、少くとも殺人についての認識、構成要件事実についての認識があることは否定できない。これをほ脱犯について概括的犯意という場合、ほ脱税額を計数的に正確に認識していないが、ほ脱犯の構成要件事実についてはすべて認識を要するということと置換えるのならば理解できないことはない。換言すれば、ほ脱犯にあつては、あくまでも、所得税債務の存在、申告義務の存在と不履行、詐偽不正の行為と結果発生についての認識そのものはあくまでも必要とするといわなければならないのである。被告人の手形割引収入についてのほ脱の犯意は右のような見地から検討されるべきで、それによれば、犯意の存在は認め難いといわねばならない。

更に、所得税においては、十ケの所得分類のあることを忘れてはならない。すでに述べたように、これらの各所得は発生原因、課税原理を異にするものであり、したがつて、あくまでも、各所得分類毎に右にいわゆる犯意の存否を確定すべきである。事業所得について青色申告の承認を受けたからといつて、他の所得で更正を受ける場合は理由付記を受ける利益を有しないとの判例(最高四二・九・一二、税資四八号三九五頁)は、所得税における所得分類をいかに理解すべきかの好個の指針となるであろう。

3. 原判決は「被告人は長年にわたり手形割引を反履継続して行い、それによつて巨利を得ており、しかもその取引には仮名を用い手形の取立にあたつて仮名預金を用いるなど、所得の秘匿手段を講じていて」と認定されている。これらの事実を「詐偽その他不正の行為」にあたるとするものであろう。

しかし、取引に仮名を用いたというけれども、当時の手形割引業界の実情は、手形は商品で、デパートでネクタイを買うようなものである(例えば臼井証言)から、態々実名を用いる必要はなかつたのであり、それも、被告人の相手方が勝手に選んだ(例えば川名証言、夏目(第二回)証言)ものなのである。いわゆる店頭売買においては、かような形態の取引は世上数多く行われることであつて、公知の事実というべきである。

又、仮名預金を用いたのも、それが、手形取立に利用されたことから見てもわかるように、単に、同業者等からの取引の秘匿の目的に出でたものであつて、税金対策としてとつた措置ではない。手形の取立においては、銀行としては、真の取立依頼者が誰であるかは常に知つているのであつて、それを知らなければ手形事故に備えることはできない。銀行が本人を知つているということは、税務調査において公開することを意味するのであつて、税務当局からこれを秘匿することは不可能なのである。同じ仮名預金でも、甲が乙名義で定期預金をしておくとか、無記名定期にしておくとか全く性質を異にするのである。

右のように、仮名の取引、仮名預金ということは、本来何ら社会的に不正なものとして排斥されなければならない性質のものでないのみならず、税務当局に対する秘匿手段としては目的を達することが不能であり、又税務当局に向けられたものでもないのであるから、このことを把えて「詐偽不正の行為」とすることは、誤まつているといわねばならない。加えて、被告人は、手形割引収入についてすべて個人元帳に正確に記帳しており、税務当局に秘匿するために仮名を用いたものでないことはこの点からも窺うことができると考える。

要するに、原判決の挙げる行為はほ脱犯としての積極的行為ということをえず、この点において、法令の誤解ないし事実誤認があるといわねばならない。

第四 保険代理収入

本件所得は、形式的には被告人と第百生命との間の保険代理店契約に基く、手数料収入であるけれども、実質的には、保険料の減額のためにするものである。すなわち、大口の保険契約をとるため、もし大口の保険に入るならば、保険代理契約をし、何の活動をしなくても手数料名義で金員を交付するとしておき、手続的には保険料から減額して決済するものであつて(被告人の検面調書)、被告人において事業所得の認識のないことはまことに当然であつて、原判決はこれをしりぞけた点で、事実誤認があるといわねばならない。

のみならず、右のように実質的には保険料の減額措置といえるのであるから、税法の実質主義からいつても、手数料収入について申告しなかつたことは是認されるべきである。

第五 借入金支払利息関係

一、原判決は「博栄会においては、予め利率の約定はなく、被告人が右資金を運用しその各回の末に利益を得た状況に応じて各回の利率を定め利息を算出していたのであり、その利率は予め必らずしも一定しておらず、その算出も一定の規約ないし会員の協議を経たものでなく被告人の一方的な計算に基づくものと認められるのである。しかも被告人が右計算内容を会員に通知したことはなく、会員は適宜元利の支払いを受け、あるいは解約し、時に金員を預託していたのであるから、被告人の前記の一方的な利息計算によつて、支払利息としての経費が確定したとは認められない」と判示される。

原判決は、元、利支払時点において支払利息が確定、発生する理由として、右のように判示するが、その主たる根拠は、被告人の一方的利息計算のみでは足らないとするにあるもののようである。しかし原判決は、博栄会の法的性格を誤解し、したがつて前記のような誤つた判示をしたものと思われる。博栄会は被告人と他の博栄会会員との間の匿名組合契約の総称であることは原判示の事実認定から十分窺うことができるのであつて、そうであるならば被告人の一方的な利息計算によつて支払利息は確定するものであつて、被告人の申告は是認されるべきものである。

匿名組合契約は商法五三五条以下に規定するところであるが、その要点を列挙すれば、

1. 当事者の一方が相手方の営業の為に出資すること

2. 営業をする相手方はその営業より生ずる利益を出資者に分配することにある。本件に即していえば、被告人と出資者たる会員とが、被告人の営業のため出資し、利益に応じてその分配を受ける契約をしているかぎり、被告人としては利益の分配(利息の支払)をしなければならないのである。原判決は、規約とか会員の協議とかを要するとしているようであるが、例えば、博栄会を一個の人格なき社団とでも考えるのであれば格別、匿名組合契約と解する限り無用のことである。殊に、被告人と他の会員とは親族、近親又は気心の知れた者達であつて、利益の分配そのものは一切被告人に委すとの契約内容であることは被告人の供述により認められるのであるから、計算内容を通知したり、現実の支払時期が何時であるかを明らかにしなくても、「被告人が右資金を運用してその各回の末に利益を得た状況に応じて各回の利息を算出」すれば、そのときにおいて利益(利息)は確定し、被告人としては当該期の経費として差支ないわけである。

右のように解すると、被告人のみの意思で支払利息が定められるようであるが、匿名組合契約とはもともとそのようなものとして存在するのであつて、出資者は損失も負担することがあり(商法五三八条)、出資については何らの権利を有せず(五三六条)、監視権を行使して(商法五四二、一五三条)営業者を控制することができるのみなのである。すなわち、被告人に出資した博栄会の会員は出資をした以上、一切を被告人の処分に委した上、利益があれば分配をしてもらう旨、ならびに、その分配率等も一切被告人の定めるところとした契約をしたものと認められるのであるから、被告人の定めるところによる各回毎の利息計算によつて分配利息は確定し、その時に被告人の経費となると解すべきものなのである。

しかして、被告人が、各回の利率を定めるについては営業成績、特に割引レートの高低を配慮し、これに応じて合理的に考えた上でなしたもので、これを一覧表にして示せば別紙のとおりで、それを原判決の別紙第十と対比すると、利息の定め方が恣意的なものでないことが明らかとなるのである。

博栄会についての契約が右のようなものである以上、この関係についてだけ、故意に原判決のように現金主義をとる必要はなく、原則どおり経営について債務の確定した時期においてこれを計上することを認めるのが正当というべきであつて、原判決はこの点において法令の解釈適用を誤つたか事実を誤認したものといわざるをえない。

二、博栄会関係の経理は、被告人において個人元帳にすべて正確に記帳整理してあるのであるから、決して架空経費の計上ではなく、ほ脱犯の詐偽不正の行為といえないこと当然である。又右のような事情で行われた博栄会についての契約に基くものである以上、これを経費として申告することは正当であつて、ほ脱について犯意があるとはいえないのである。

第六 土地売買に関する譲渡所得

本件については、被告人には全く犯意はない。被告人は後藤観光にたのまれて、その指示に従つて申告をしたのであるが、そのようなことになつたのは、当時後藤観光が証券市場二部の上場を目的として、本件土地を取得することにより利益を計上することを考えていたのである。したがつて、この点の税金問題はすべて後藤観光において処理するということであり、被告人は一切これに委せたものである。このことは、取得原価を実際よりも低くして評価するという税務対策としては極めて異例の処理をしていることによつても明らかであろう。

第七 謝礼金について

一、原判決は、「被告人が不動信用金庫に対し定期預金を設定したその設定協力に対する後藤観光から被告人に対する謝礼金」五八、六七一、三〇〇円を雑所得としてほ脱額に計上(別紙第一、26第四26)。

しかし、右の所得の計上、所得分類は事実を誤認し、法令を誤解適用した違法なものである。

被告人の供述(特に検察官に対する調書(四二年二月一四日付、二項)によれば、被告人は昭和三八年一月一六日頃から、同年一〇月八日頃までの間、自己の資金を不動信用に定期預金をし、これに対する裏利(のちに後藤観光からの謝礼金と判明)合計五八、六七一、三〇〇円をも同信用金庫に定期預金としていたのであるが、元利三〇五、〇〇〇、〇〇〇円となつた同年一一月初旬同信用金庫が支払を停止したというのである。そして、砂山、三輪らの証人の証言もおゝむねこれに添うものが認められる。

右の事実と、被告人の手形割引等の取引状況ならびに個人元帳の記帳整理方法(「その他」「貸出利息」の口座設定等)等を綜合すれば、次の事実が認めることができる。すなわち、

1. 被告人が不動信用に対して多数回に亘つて定期預金をした金は、手形割引その他金融業等の事業のための資金であること。

2. 右の多数回の定期預金は、手形割引による儲けと並んで、いわゆる裏利(謝礼金)をもふくめて計算した場合には、有利な所得獲得方法であると被告人が考えたこと。

3. それらの定期預金は増加しつゝ被告人の事業資金になつていること。

4. それらの定期預金債権は昭和三八年一一月不動信用金庫の支払停止によつて、被告人として利用不能となつたこと。

が認られる。

ところで、被告人としては、前述のとおり、手形割引はその取引によつて所得があつても、申告すべき所得を構成せず、かりに構成するとしても、事業所得とならないと確信しているのであるが、仮に原判決のいうように、それが事業所得を構成するというのであれば、その事業は、手形割引「その他」に手持資金を運用して所得を稼得する継続的行為性にその基礎が求められるべきである。すなわち、被告人がこれまで蓄積した手持資金を運用し、あるいは手形割引によつて、あるいは裏利のついた(原判決のいわゆる謝礼金のついた)定期預金によつて、そしてこれらを繰返すことによつて継続的に所得を稼得する行為が事業と認められるべきこととなるものである。被告人について事業所得を認めるのであれば、手形割引および右の裏利目的の定期預金をふくめて、金融業ないし「対価を得て継続的に行なう事業」を行う者として認定すべきである(旧法施行規則七条の三、新法施行令六三条参照)。この点について、原判決が手形割引を行う金融業とのみ認定したのは、事実誤認ないし法令の解釈適用を誤つたものといわざるをえない。

被告人は右のように、自己の事業として多数回に亘り、不動信用に対し定期預金を設定し、裏利をえ、これらをふくめて更に定期預金としていたところ、不動信用金庫は昭和三八年一一月支払停止をしたのである。この支払停止は、金融機関の性質上、極めて重大な事実であつて、この時点において預金債権は貸倒となつたと認むべきである。税務の取扱がこれを肯定し(基本通達二六九)ているのは正当である。少くとも半額を貸倒と認める税務の取扱(同二七四)は正当とされるべきである(昭和三九年に入つて、預金債権の三割について回収が可能になつた事実があるが、もし、昭和三八年において金額貸倒と認めた場合には回収分はその時全額収益に計上すべく、半額貸倒と認めた場合には、残二割を当該年において更に貸倒と認定すべきことゝなるであろう)。原判決が、謝礼金について、貸倒の時期は当年度でないと解しているのは、法令の解釈適用を誤つているといわざるをえない。

要するに、もし、手形割引が事業とされるのであれば、謝礼金はそれのみが独立して雑所得を構成するべきものではなく、事業としての資金運用の継続的行為のうちには、手形割引もあれば、裏利(謝礼金)つきの定期預金もあり、それらが更に事業資金となつて順次事業所得を稼得していたのであると認むべきであり、しかして、昭和三八年一一月不動信用金庫の支払停止によつて、これに対する定期預金は全部、少くとも半額は貸倒れとなつたのである。したがつて、被告人の金融業ないし「対価を得て継続的に行う事業」において、事業資金(所得として稼得されたものをふくめて」が業務遂行上貸倒を生じたというべく、したがつて、謝礼金のみにとどまらず、定期預全金額について、少くとも半額について昭和三八年における必要経費として、被告人の事業所得から控除すべきである。

二、原判決のように謝礼金が雑所得にあたると解するとした場合においても、それは、所得から除算すべきである。

1. 原判決は「謝礼金は不動信用に対するいわゆる導入預金をなしたことに基き後藤観光から被告人に支払われたものであり、不動信用に対する定期預金の利息とは認め難いのみならず………定期預金とするか普通預金とするかは当時被告人において自由であつたはずであり、設定した預金の定期も短期であつて、後述の支払停止に至るまで払い戻し得たものも多い………かように………一旦被告人が受領したものであり、しかも後述のように当年分として回収不能となつた事実も認められない」として旧法一〇条の六に該らないと判示する。

原審における砂山、三輪の証言ならびに被告人の供述によれば、

イ 謝礼金は不動信用に対するいわゆる導入預金の裏利として日歩計算の上、帳簿上は後藤観光から被告人に支払うことに後藤観光と被告人との間で話をしたこと。

ロ 不動信用は右の話合を承知していたこと。

ハ 謝礼金は、不動信用に対する預金の方法で支払うこと、換言すれば謝礼金は不動信用に対する預金債権によること。

ニ 被告人としては、導入預金はもちろん、謝礼金の引おろしは事実上不可能であつたこと(不動信用の資金繰りからいつて)。

ホ 後藤観光、不動信用は昭和三八年一一月前後して店舗を閉鎖し、取引をしなくなつたこと。

ヘ 三八年一二月には不動信用の大口預金者(被告人もふくむ)には支払わないとの方針が出されたこと。等が認められるのである。したがつて、原判決には右の事実認定には重大な事実誤認があるというべきである。

もし、右のように、事実が認定されるならば、当然旧所得税法一〇条の六は適用されるべきである。けだし、謝礼金は後藤観光から受け取つたものであるにしても、それは預金債権をもつてしたものであり、それは同年中に支払停止によつて回収不能となつたこと明らかだからである。預金債権は消費寄託債権であるけれども、その支払が停止される以上貸倒れといつて差支えないのであつて、これあたかも、甲が乙に対する売掛債権を回収する目的で、現金回収に代え、乙から乙の丙に対する預金債権を譲り受けた場合、その貸金債権が貸倒となつたときは、甲の乙に対する売掛債権は回収不能として貸倒とされることゝ同様である。ただ本件の場合、被告人は後藤観光の不動信用に対する預金債権で支払を受けることなく、直接不動信用に対する預金債権を取得したことが異るが、これは三者の間に右のような了解があつたからである。

原判決はこの点につき、被告人は一旦後藤観光から謝礼金を受取つた上、不動信用に預金したもので、それは被告人の任意にかゝるように認定しているけれども、被告人が謝礼金を原判決がいうように「一旦受け取つた」ものではなく、導入預金の金額に応じて、裏利(八銭位)を計算し、算出された金額を定期預金証書にして、これを後藤観光から受け取つていたものである。すなわち、被告人としては、預金債権以外では受け取りようがなかつたのであつて、その債権が回収不能となつたのであるから、正に前記法案を適用すべき事実関係にあるのである。

原判決は、回収不能の時期を当年度でないと判示するが、「不動信用金庫は昭和三八年一一月預金の支払を停止した」旨認定しているのであつて、右の事実は金融機関の性質上社会通念上回収不能と称しうるものである。原判決は翌年になつて一部の支払がなされ、倒産したわけではないと判示するが、昭和三八年中において、法律的には破産等の手続はとらなかつたにしろ、店舗を閉鎖し、他の機関の管理に移り、同年末には被告人のような大口債権者には支払わないとの方針が出されている事実に徴すれば、それが正規の金融機関であるだけに、債権の回収が不能になつたと認定すべき根拠は十分にあるといわねばならない。もちろん、翌年一部の支払がなされたのであるが、それは、不動信用金庫自身の意思に基くものではなく、管理者たる中央信用金庫の肩替り(債務引受)によるものである。したがつて、不動信用金庫から回収しえたものとはいえないのである。

2. 謝礼金が雑所得にあたると解する場合、新法五一条四項により、その限度において必要経費に導入すべきである。

原判決は、「旧所得税法は、雑所得につき必要経費として認める範囲を、原則として総収入金額に対応する経費に限定するという立場から、事業によらない貸金元本の貸倒損は必要経費と認めなかつたと解される」と判示される。

本件謝礼金が問題とせられたのは、昭和三八年であるが、その当時においても、現五一条四項による所得計算がなされるべきであつたことは、同条が創設的な規定と解すべきでなく、確認的規定と解することが租税負担の公平という見地からして、条理に合すると考えられることに徴しても首肯できるところである。判例によれば、一定の地上権又は賃借権の設定を資産の譲渡とし、これによる所得を譲渡所得として明定(旧法九条一項八号イ、新法三三条一項)する以前の、右要件に合する賃借権の設定による所得を、明文(不動産所得とする)に反し、譲渡所得と解すべきであるとしている(東京高裁昭和四一年三月一五日判決、税資四四号一九六頁)がこの判例は本件にも妥当する。又、他の判例によれば、一旦貸倒れなきものとして所得計算をして、当該課税処分が確定しても、のちにそれが貸倒となつたことが明らかである以上、なんら課税処分の変更を要せず、これに相当する税額は過大徴収となり、国として不当利得を構成し、返還義務を負うという(東京高裁昭和四二年一二月二六日、税資四八号六八五頁)のであるが、この趣旨とするところもまた租税負担の公平を重視しているものということができる。

このように、税法上明文がなくても、のちにその旨が規定がなされ、又は社会通念上税法の不備が明らかである場合は、租税負担の公平の理念に照らし、納税者のため類推解釈をすることは当然許されるものと考える。本件謝礼金は、被告人の資産たる現金を不動信用金庫に定期預金したことによつて、被告人にもたらされたのであるが、同金庫の支払停止によつて、元金も謝礼金もそれこそ元も子もなくしてしまつたのであるから、この事実を黙過して謝礼金について、これを雑所得と解し、被告人の実質的損失を顧みないのは、税法解釈として正当なものといえず、前記判例の趣旨に反するものといわなければならない。原判決の被告人に対する同情は、税法解釈によつて、裏付けされる必要があるのである。

謝礼金に関する所得の成否の問題は、前記一、において述べたように、事業資金の定期預金による運用とその所得として事業所得のうちの一取引形態と考えれば、前記事実関係によれば、当然、経費として所得の控除項目とされると信ずるが、かりに雑所得とされたとしても、右のように解すれば、やはり、損失として経費に算入されることゝなるのである。かく解することによつて租税負担の公平は維持される。

三、被告人は、謝礼金について所得申告をしなかつたが、これについては、ほ脱の犯意はなかつたのである。すなわち、前記のような事実関係にある以上、これを所得税の対象たる所得と考えたり、申告義務があると考えたりすることは、通常人には期待しえないのであつて(原判決がこの点について同情を示していることを注視する必要がある)、したがつて、これについて申告しなかつたのは、相当の理由があるのであつて、犯意はないというべきである。

第八 給与収入について

一、原判決は給与収入は、「東京特殊鋼株式会社における社長認定賞与となるべきもので被告人個人がそれを享受した額」であると判示される。しかし、個人にとつて給与所得である以上、それは、給与支払者(会社)において源泉徴収の方法によつて賦課徴収されるべきもので、個人が直接に税務当局に対し申告義務を負うものではない。もちろん、給与支払者において源泉徴収をし、又は税務当局が源泉徴収決定をして、給与所得者がこの分を負担したときは、給与所得者といえども必要な場合には(旧法二六条、新法一二一条)申告義務を負担することがあり、これを故意に怠ればあるいは給与所得者が刑責を問われることはありうるかもしれないが、本件の場合には、被告人の各年分の申告の時期においては、何ら会社において源泉徴収をしておらず、決定も受けていないのであるから(女中給与は源泉徴収済であるが、その関係においては無関係である)、申告義務はなく、したがつて申告しないことは何ら違法でないのである。

原判決はこの点において、ほ脱犯についての法令の解釈適用を誤つており、違法たるを免れない。

二、女中給与について、原判決は、それらの女中が家事手伝であるので、これらに対する給与は被告人個人の所得の処分によるべく、認定賞与であると判示する。

しかし、これらの女中は家事手伝であると同時に、会社の用務も弁じていたのであり、もしそうだとすれば会社と被告人の負担割合を決めなければならないのであり、専ら家事使用人としたのは事実を誤認したか、審理不尽の違法がある。

又、この給与は、女中に対し健保資格をえさせるために、昭和三六年一〇月以降被告人は自己の給与(会社としては報酬で損金となるべきもの)を二分して名義を一部女中名義にしたものである。そして会社としてはこれについて女中から源泉徴収をしているのである。右の事実は、次のように理解すべきである。被告人は会社と女中給与分に相当する報酬減額の合意をした。したがつて、その分については被告人の所得たりえない。会社が女中に支払つたのは、給与名義の単なる寄附金である。よつて、これについては被告人は相関するところがなく、会社として損金計上が許されるかどうかは限度計算の如何によるということになる。したがつて、これらの女中給与分を、被告人の所得ほ脱の対象とすることは誤まつている。

三、会社からの借入金について

イ 原判決は、被告人と会社との貸借関係を否定しているけれども、その各年における両者の取引内容を詳細に証拠に基き認定すれば、貸借関係にあることが優に肯定できるのであつて、事実を誤認したものといわざるをえない(被告人の供述、斉藤栄八郎の証言。詳細は別に主張する)。その手形貸借、利息明細表は別紙のとおり。

ロ 原判決は貸借関係を否定するにあたつて、被告人ならびに斉藤栄八郎の証言を一顧もせず、この部分の記帳整理が個人元帳の借入金勘定にではなく、〈カ〉利益金勘定になされていることを根拠としている。しかし被告人の供述するように、〈カ〉利益金勘定というのは、〈カ〉すなわち会社との取引に関する口座という程の意味であつて、利益、損失というのは収入、支出の額に外ならず、それは会社との取引を一ケ所に集めて記帳整理し、取引の実情を一覧しうるとの便宜のための措置である。借入金勘定に記帳しなかったのは記帳、検索の便に出でたにすぎず、他意はないのであるから、原判決は口座設定の形式に拘泥しすぎているといわざるをええない。因みに被告人の個人元帳の記載を一方でこのように被告人の不利益に認定する資料に供しているのに拘らず、他方被告人にほ脱の意思なきことを個人元帳に整然と記帳していることをもつてしても認めること拒否する原判決の態度は、首尾一貫に欠けるきらいがあるといえよう。原判決は重大な事実誤認を犯していると考える。

ハ 原判決は「昭和四一年三月二九日東京特殊鋼株式会社の取締役会において、弁護人主張の試案が可決承認され、被告人は東京特殊鋼に対し弁護人主張の現金を払込んだことがうかがわれ」と認定していながら、「右取締役会の開催されたのは国税当局が本件所得税法違反事件を立件し査察に着手した後であり、議決の内容においても、被告人がすでに昭和三八年の前から東京特殊鋼より金員を同様に流用している事実があるのに、本件対象年の三ケ年分に限つて、利率を一〇%と定めて返済をとり決めている等内容に作為的なあとがうかがわれ」と認定している。

しかして、右の二つの認定は前後相矛盾ないし両立しないものであつて、それ自体、理由不備ないしそごがあるというべきところ(後記参照)、原判決はこれに続いて「仮りに右議決内容とこれにともなう被告人の前記返済の事実に全面的な信を措くとしても、前示認定のとおり………金銭消費貸借契約は存せず………」と判示する。しかし、右議決内容が信を措けるものであるならば、それは既存の消費貸借の契約とその履行についての議決であって、新たな消費貸借締結でないこと明らかなのであるから、消費貸借契約が存しないとすることの理由とはしえないのであつて、原判決の結論を導くためには、被告人主張の取締役会の決議及びその前提たる消費貸借契約そのものの存在を否定する資料に基く認定を必要とするのであつて、これなくして右の結論を導いたのは、理由不備ないしそごがあるか、経験則に著しく反する事実の認定をした誤があるといわねばならない。

なお、被告人は、原判決のいうように「後に至つて東京特殊鋼と被告人とが合意によりこれを消費貸借の目的とするとした」ものでなく、かつそのような証拠は全くないのであつて、原判決はこの点においても事実を誤認し又は証拠によらざる事実認定をした違法がある。

ニ 原判決は右認定のように、「右取締役会の開催されたのは国税当局が本件所得税法違反事件を立件し査察に着手した後であり、議決の内容においても………作為的なあとがうかがわれ」と判示されるが、右取締役会の存在を証明する一資料たる議事録は、その決議の当時すなわち、原判決の認定する昭和四一年三月二九日作成され、したがつて、同年五月一九日の捜索の際、押収された庶務関係綴に含まれていたのである。したがつて、右認定はこの証拠関係を無視した事実誤認といわざるをえない。

第三点 原判決は刑の量定が著しく重く、不当である。

一、いわゆるほ脱犯その他の租税犯は、財政権に対する侵害を処罰することを目的とするもので、行政犯に属する。すなわち、国家財政収入の大宗である租税についてその課徴権を妨げる行為に対しては、適当な規整措置をとらなければ、租税収入に思わざる事態を生ずることがあるので、国家行政上の必要に基き設定された犯罪類型である。

他方、所得税法は他の多くの租税と同様、賦課課税を避けて申告納税制度をとつておる。この制度は自己の経済活動の成果を租税法規に従つて算出して、みずからの納税義務を自主的に確定するものである。ところが、租税法規は極めて複雑であるのみならず、しばしば改正があつて、納税義務者が常に完全に正確に申告することを期待することは殆んど不可能に近い。

したがつて、たとえ、申告に不実のものがあるとしても、ほ脱犯ないし租税犯の右のような性格からして、刑罰権の発動にあたつては謙抑主義をもつて臨むべく、例えば些少なる申告の瑕疵、申告後の納税義務者における是正措置(修正申告、納付)ということは、財政収入の点から見ても、十分に高く評価して刑を量定すべきものと考える。

二、被告人は、税法を深く研究せず、他人の言を信用したためこの結果を招ひたことについて、事件当初から改悛の情を表わしているのである(被告人の供述)。被告人はその後も経済活動を続けているが、税務当局と十分に連絡をとつて、正しい申告納税をしているのである(被告人の供述)。

右のような、被告人の心情と税務申告についての正しい行動とに鑑みれば、再犯の虞れはもちろんありうべき筈もない。

三、特に留意すべきことは、被告人は原判決も判示するように、「巨額の預金の回収不能により甚大な経済的損失を被つた」のであつて、損失に対しては何ら租税上の手当がないのに、その前の利益のみに課税権を発動するという過酷な結果を招いていることである。これらの損失を考慮した上被告人の刑責をいかにするかを定めることは、それが財政犯であるだけに必要欠くべからざることといわねばならない。

なお、被告人と同種営業をしていた者も、十数名に及ぶ多人数が国税当局の査察を、被告人と同時に受けたのであるが、これで起訴されたのは僅々被告人外一名だけであつて、極めて、不公平の感を禁じえないというのが被告人の心底にあると思われる。

四、以上のような事情を綜合して考えるならば、原判決の刑の量定は著しく重いというべきであると確信する。

以上の次第であるので、原判決を破棄し、相当の判決あらんことを求めるものである。

昭和四四年(う)第一八五七号

所得税法 斉藤博

右の者に対する頭書被告事件について、別紙のとおり、控訴趣意書の補充書(第一)を提出する。

昭和四四年一二月 日

右被告人弁護人 真鍋薫

東京高等裁判所第六刑事部

御中

控訴趣意書の補充書(第一)

この書面は、さきに提出した控訴趣意書に対し、検察官の答弁があつたので、これに対する反論の形式で控訴の趣意を補充する目的で作成提出するものである。

この書面は右反論の一部であつて、更に近く補充書をもつて、追完する予定である。

第一 認定賞与(給与所得)分が本件ほ脱犯の対象とせられるべきものでないとの主張について(控訴趣意書二丁以下、答弁書二丁以下)

一、弁護人主張の要旨は、給与所得はその納税の方法が法定されていて、給与支払者(源泉徴収義務者)において源泉徴収をしてこれを納付し又は給与支払者に対する徴収決定によつて賦課徴収されるものであつて、この手続が先行してはじめて給与所得者は一定の場合に(旧法二六条一項一、二号、新法一二一条参照)申告義務を負うものであるから、本件のように、給与支払者たる会社において、本件給与所得とされた分について源泉徴収をし、又は税務署長において徴収決定を経ない以上、この分について給与受取人とされた被告人に申告義務が発生することはなく、したがつて、これについて申告しなくてもほ脱罪とされることはない、ということである。換言すれば、本件において給与所得とされたいわゆる認定賞与分については、納税の手続として法定されている源泉徴収が先行していないのであるから、これについて、直接被告人が申告義務を負うことはないということになるのである。

二、検察官は総所得金額について申告書を提出すべきものと定められていると主張されている(三丁表)が、法定の税納付の手続を経ない(源泉徴収手続を経ない)給与所得について申告することは右のような納税手続の規定からいつて論理的に正当でないことは明らかである。

検察官はいみじくも、非法律的な表現でこれを自ら肯定しておられる。すなわち「給与所得について源泉徴収の方法によつて所得税を徴収していることは、給与所得者が源泉徴収義務者を通じて申告納税していることを意味するものであつて、給与所得者に申告納税義務がないことを意味しない」とされている(三丁)が、言い換えれば、給与所得者は源泉徴収の方法で納税するものであることを主張されているのである。「源泉徴収義務者を通じて申告納税する」という前提に立つて、検察官は「給与所得者に申告納税義務」があるといわれるが、それは法律的にいえば、給与所得者は、源泉徴収義務者の源泉徴収(又は税務署長の徴収決定)によつて納税するということを意味し、それが法律の定める納税方法だとの主張に帰し、弁護人の論理と合致するものである。

三、検察官は、旧法六九条の三(新法二三九条)は、納税義務者が徴収義務者を通じて虚偽の事実を主張し、その虚偽の事実に基いてなされた所得税の源泉徴収が正当の納税額よりも過少となつた場合に成立し、弁護人の主張の根拠とならない旨主張される(三丁裏)。しかし、この論の当らざることはすでに判例の存するところ(いわゆる月ケ瀬事件、最高裁大法廷、昭和三七年二月二八日判決、税務訴訟資料三二号五五〇頁以下。この事件の一審東京地裁昭和三〇年五月二〇日判決は、源泉徴収義務者たる会社、およびその代表取締役が、会社従業員に対し、その所得税を源泉徴収せず、納付しなかつた事実に対し旧法六九条の三を適用して有罪とし、その控訴審東京高裁昭和三一年二月一六日判決はこれを相当としたものであり、最高裁は、その上告を棄却して原判決を維持している)であつて、弁護人の前記主張の正当なることを裏書きするものである。

四、検察官は、給与所得について源泉徴収の方法をとつていることと、給与所得を申告すべきこととは別個の問題だと主張される(三丁裏末尾)が、それは給与所得についての前記のような納税方法を知らないか、又はこれに故意に目を覆つているかによるものである。給与所得について、源泉徴収義務が先行しないことは法の予定しないところであり、源泉徴収の後にはじめて給与所得者自身の申告がありうるものである。

五、弁護人の論は、次のようなことからも正当性を論証しうる。本件において、被告人は認定賞与分については、給与をうけたとは考えていない(被告人の供述はもちろん、これについて肯定する一切の証拠はない)のであるから、これについて、被告人に申告義務を課することはすなわち不能を強いるに等しいものであつて、これを常人に期待することは不可能である。もし、会社において源泉徴収をし、又は税務署長において徴収決定をしたというのであれば、一応はその給与所得の目安ができ、したがつて申告義務の履行も可能だといえよう。しかし、本件においては、源泉徴収手続は、被告人に申告義務があるとされた時期においては、なされていないのであるから、申告義務不履行の責を被告人に負わすのは極めて非論理的な結末を承認することになるのである。

六、要するに、いわゆる認定賞与分について、これを被告人の給与所得とし、これについて被告人に申告義務違反があるとの理由で、ほ脱罪に問擬することは違法である。のみならず、仮にほ脱罪だというのであれば、それは旧法六九条の二(新法二三九条)に問擬すべきことになるのであつて、原判決の誤りはいずれの点より見ても明白であり、検察官の所論も採用するに由ないものである。

第二 配当所得借入金否認について(控訴趣意書一三丁、答弁書一〇丁)

一、弁護人主張の要旨は、原判決が、株式取得のための借入金でないとは判示しているが、借入金そのものを否定していない以上、それが、被告人の全所得から見て「株式取得のための」借入金でないにしても、必要経費性をもつかどうかを審究すべく、これをしないのは審理不尽だというものである。

二、検察官がいうように、単に「株式取得のための」ものでないとされる以上、配当所得そのものの必要経費とされるものではないことは理解できるところであるが、被告人のように、各種所得のある者については、借入金がある以上それはなんらかの所得の必要経費とされることは十分考えうるのであり、もしそれが肯定されるというときに、原判決のように否認しただけにしておくことは、結局法律で定める必要経費について所得から控除せず、その分だけ多額の納税を強いる結果を来たし、それは租税法律主義に反することとなるのであるから、株式取得のための借入金ではないとした場合には、すべからず、それはいかなる所得の借入金であるかを確定するために審理するのが裁判所のとるべき正当な態度であり、当事者に対し釈明を求めるべきである。この措置に出でなかつた原判決には審理不尽の違法があるというべきである。

第三 地代収入について(控訴趣意書一四丁、答弁書一一丁)

一、弁護人主張の要旨は、地代として物理的に受領していても、その不動産の所有権が確定しない以上は地代収入として確定するものではないというものである。

二、検察官は、弁護人が「登記簿上の所有者であり、地代を受領していた」といつたことを援用して地代収入として確定していたことの根拠とされる。しかし、登記簿に公信力のないことは周知のとおりであつて、そのことが地代の権利確定とどう結びついて検察官の論拠となるか理解できない。又、地代を物理的に受領しても、その所有権について争があり、その帰属が確定しない以上、それを確定的に保有することのできないことは理の当然である。受領したことを認めたからといつて、それが地代収入であるということを認めたことになるものではない。ここでは不動産の帰属が係争中でも、その地代名義の金銭授受は権利として確定したかが問題とされるべきものなのである。検察官の論は皮相の憾がある(原判決も同様)。

例えば、売買代金を払つたのに更に払えといつて請求訴訟を起されたとしよう。その場合、被告はこれを争つているのに拘らず、その請求額を債務として損費に計上しうるであろうか。原告は収益として計上しうるであろうか。又、相続不動産について相続人が二人いるとき(均分相続と仮定する)、その一人が自己に相続登記をしたため、他の一人がこれを争つて、持分について移転登記を求めて係争中の場合、その不動産の登記名義を有する相続人は、借主に対し、賃料金額の請求ができるであろうか。仮に相続人二人に共有だとして持分登記の判決があつた場合どうなるか。これらの例によつても明らかな如く、本件のような不動産所得の基因となる不動産の帰属そのものについて争があるときは、仮令現実に地代相当金額の授受があつても、それは地代として確定しうべき筋合ではないものである。つまり、所得が発生したかどうかは、金銭が授受されたり、請求がなされたりしたことによつて判断されるものではなく、それが、確定的に受けとつたと認められるかどうか、又は請求するものに帰属すると認められるかどうかによつて判断されるものであり、それが税法におけるいわゆる権利確定主義の一適用なのである。

三、要するに、本件地代は、土地の帰属について当事者間に確定した法律関係が成立した時をふくむ年の、その認められた者の所得とされるべきで、それ以前の授受の時において所得があるとする原判決及び検察官の所論は正当ではない。

第四 手形割引収入について(控訴趣意書一六丁、答弁書一二丁)

一、この点に関する所得発生の時期についての弁護人の主張の要旨は、手形割引は手形の売買であるところ、売買に基く所得の発生時期は売買の時点(一般に発生主義といい、税法上権利確定主義ともいつていること周知のとおり)であると解すべきである、というにある。

二、検察官は、手形割引が手形売買の性質を有するものであることは肯認されているものの如くであるのに拘らず、その主張として「税法上、これを如何に解すべきか、それによる収益を如何なる所得分類とするかは別個の問題であり税法上はいわゆる経済成果をもつて所得としている」から、手形割引を手形貸付と同様金融と解されている以上期間対応による処置をすべきものとされる。

検察官の説かれるところは、簡略であつて、その趣旨は必ずしも明確でないが、少くとも二つの点で大きな誤まりをおかしているものといわざるをえない。その一は、手形法その他民事法の税法上の理解とは別個であるとする点であり、その二は、経済的成果についての理解の内容の点である。

三、その一について考えて見よう。あえて裁判例(最高裁昭和三五年一〇月七日判決、最高民集一四巻一二号二四二〇頁、東高昭和三四年一〇月二七日判決、行政例集一〇巻一〇号一九六二頁)を引くまでもなく、わが国の法体系は憲法を頂点として各種法律、命令等が一定の目的的組織を構成して国民の法的生活の基準を示しているものであつて、民事法と税法とが同じ事実に対し、同一の評価をすることは法的安定性のためにも必要なことなのである。

もし、どうしても別個の理解を必要とするときは、その旨の特別の規定によつて明示されているのが実情である。例えば、一定額以上の賃借権の設定対価の所得を特に譲渡所得とするために特別の規定を設ける如き(旧法九条一項八号、新法三三条一項)その一例である。検察官が、手形法上、手形割引を売買と解しているとされるのであれば、それは税法上も当然に売買と解されるべきものなのである。もちろん、税法は期間を区切つて所得を計算する方式を採用しているので、右の場合、売買が何時行われたかの判断をして、これを確定する必要があるけれども、それは手形割引すなわち売買が民事法上から見て何時行われたかを基礎にするのであつて、この点について税法が別個の立場で手形割引自体について判断をするものではないのである。

売買その他の取引が行われた場合、税法上いわゆる権利確定主義(発生主義)が唱えられているが、それは、売買のような法律行為について、税法だけで判断をするのではなく、民事法によつて、それが判断されたところに基いて、権利確定主義を適用するものなのであることを明確に認識すべき必要がある。検察官が、手形割引を手形法上、手形売買と解されたとしても、税法上はこれと別個に解すべきだと主張されるのは誤つている。

手形割引は、手形の売買であり、その時点で手形と金銭との交換が行われるのであるから、その時に所得の発生があるとすることは、税法の所得発生認識基準としての権利確定主義からいつて当然のことである。

四、その二について考えよう。税法上の所得が経済的成果を指すとの検察官の主張は、その後の文章に、手形割引は手形貸付と同様金融と解されているからとの文言があるに徴すれば、誤解をふくんでいると思われる。

税法上いわゆる所得は、経済的利益が特定の者に帰属する状態を指しており、法律的表現にしたがえば、金銭に見積りうるもの(民法三九九条参照)、財物、財産上の利益(刑法二三六条等参照)の帰属ということであり、会計学的表現によれば、当事者にとつて貸借対照表能力を有する内外の取引(資産、負債、資本、損益に影響を及ぼす一切の行為)ということになると概言することができよう。すなわち、当事者のなす一切の取引のうち、金銭に見積りうるものを客観的に測定したものが所得(の存否)であつて、それを検察官が経済的成果とされるのであれば正当であろう。しかし、検察官は、その立論によると、手形割引という法律行為たる取引が、主観的に金融と理解され又はその目的でなされるという経済的目的の側面から見て、税法上の所得概念も経済的に理解されるべきであるとされるようであつて、そこに誤解があると思われる。

一般に経済的内容を伴う法律行為をする場合、その経済的目的は千差万別であつて、極端にいえばすべてことなるといつて差支えない。その場合、常にその当事者の経済的目的を追求して、これに伴つて、税法上の評価をすべて区別するということは不可能であり、法的安定を害することは多言を要しない。手形割引と手形貸付とは両者とも金融と解されている(とは弁護人は考えないが、仮にそうだとしても)というのは、当事者の経済的目的、すなわち、法律行為の前提たる経済的動機に過ぎないのであつて、法的評価は、手形割引と貸付とは異なるものである。したがつて、仮にいかに経済的動機が同じだとしても、手形割引と貸付とは民事法において異なる法的評価をしているのでこれに基いて税法の適用を考えなければならない。

検察官の論ぜられるところは、所得が税法上経済的成果だとされていることと、取引(この場合、手形割引という法律行為)が経済的動機から見て、他の取引(手形貸付)と同視しうるということとを混同していると思われる。

五、要するに、手形割引という法律行為によつて所得が発生するとする場合においては、その法的評価は民事法と税法とで異るべきではなく、民事法上それが手形売買と解される以上、税法上も、特段の規定のない限り、これと異る解釈をすることは許されず、その基礎の上に立つて、税法を適用すべく、さすれば、手形割引(ことに本件の手形割引は現金取引である)の所得発生時期は権利確定主義の建前上、割引時であるというべきであり、原判決は誤つており、検察官の論も正こうを失している。

第五 借入金支払利息について(控訴趣意書二三丁、答弁書一四丁)

一、博栄会関係についての弁護人主張の要旨は、博栄会は、その事実関係によれば、商法上の匿名組合と解すべきであるのに原判決は慢然その適用を怠り、且つ特段の事由もなく、異例の現金主義を採用したことが違法だというにある。

二、検察官は、一応半期で三・五パーセントの利息をつけるとの証言は匿名組合の性格に反するというが、これは事業者が出資者に対して運用利益について努力目標を示したものというべきで(元本保証のない匿名組合契約や、投資信託で一定利率を約定した如く広告した顕著な事例が過去にあつたことを想起すべきである)、このことの故に匿名組合性が否定されるものではなく、又かりにこの証言に依拠するとすれば、原判決は事実認定を著しく誤つたことになる。

三、検察官は、原判決認定の事実の下では、利息債務は確定しないといわれるが、それは博栄会をいわゆる人格なき社団とでも考えていることによる誤解であり(原判決も同様)匿名組合であると解する以上、被告人が利息計算をして各人に分別計算をしている以上、確定債務として、当該期の必要経費に計上することは正当である。けだし、当該期を経過すれば、出資者は具体的権利としてこれを被告人に請求する権利を有するからである。なお、例えば電気ガス代等について、それらの会社から請求がなくても需用者が当該期にかかる分をみずから計算して未払電気ガス代金として計上することは許されているが、このことと比較しても被告人の利息計算をそのまま経費と認めることは正当であろう。

四、要するに、博栄会の法的性格からして、被告人のこの点についての利息計算を認容して、これを当該期の経費とすべきであり、原判決の違法性は検察官の所論にも拘らず動かしがたいといわねばならない。

第六 謝礼金について(控訴趣意書二六丁、答弁書一八丁)

一、弁護人の主張の要旨は、謝礼金所得は、被告人の事業所得の一部であり、それは事業資金とともに昭和三八年一一月貸倒(すくなくとも通達にいわゆる形式基準による貸倒)があつたというべく、その後被告人においてその殆んどを失つたことに徴すれば、租税負担公平の要請からいつてもこれを所得とすることは許されないというべきである、というにある。

二、検察官は、謝礼金が事業所得だとすることは、理論構成に無理があるといわれるが具体的内容のある答弁をなさらない。理論的に反駁のない以上、弁護人の見解が、いわれるように真に「全く独自」なのかどうか判断の方法がない。実質的に問答無用の方式をとつたことは、当審が法律審であるだけに特に残念である。

三、検察官は、いわゆる三団体がのり出して、右金庫を管理し、三九年になつて預金額の三割を支払つたこと等をもつて貸倒にあたらぬとされるが、一般に会社等商人が自己の自主的経営能力を失い閉店して金融機関の管理となつたとき、これを倒産と称し、その債権者は貸倒とするのが社会常識であり、公知の事実であり、税法も認容するところである。まして、それが正規の金融機関である場合、政府の監督を受けているだけになお更である。検察官(原判決も)は本件のような昭和三八年一一月における取付さわぎがあつても貸倒でないとされるけれども、税法上の「貸倒」の意義を殊更きびしく理解しているものといわざるをえない。

もちろん翌年になつて三割位は返済をうけたけれども、それは、不動信用金庫そのものからの返済でなく、管理三団体の影響下のそれである。しかしそれはそれでその年に別個の所得として計上すべきもので、貸倒の認定には妨げとなるものではないのである。なお、検察官は「債権債務を引継いだともみられる」とされるが、債権譲渡の主張なのかどうか明確を欠く。もしそれが積極であるとすれば、法律構成が異つてくるが、その点はどうなのかを明らかにされたい。

四、検察官は、旧法一〇条の六、新法五一条四項の適用について、これを否定すべきものとするけれども、その論拠は一切示されない。具体的答弁でないので、その正否を検することができないのが遺憾である。さきの控訴趣意書に挙示した裁判例(三一頁)は弁護人の見解を裏付けてあまりあるに対し、検察官の見解はその理論的根拠を欠くといわざるをえない。

五、要するに、この点についての検察官の見解は単に弁護人の主張を否定するだけのもので、そこには積極的に原判決を法律的に支持するものはないと考える。

第七 給与所得について(控訴趣意書三三丁、答弁書二〇丁)

一、弁護人主張の要旨は、会社からの借入金について、これを否定した原判決は違法だというにある。

二、検察官は、経理処理が、帳簿上から見て貸付金ではないとされる。たしかに、貸付金として記帳しなかつた点はあり、個人元帳に〈カ〉利益勘定に計上したことは相違ないが、もともと記帳は、取引記録であつて、被告人の場合の如く小規模であれば、どのように記録してあつても、実情は十分承知している者同志であるから理解にさ程の不便はないのであつて、現に、個人元帳については、控訴趣意書で述べたような事情で記帳したのであるから、勘定科目の相違だけをとり上げて追究する原判決(検察官)の方法は避けられるべきものである。

殊に本件については、議事録(それが偽装のものでないことは、押収品目録にあることから明らかで、検察官の主張は失当である)で返済していることあきらかなのであるから、これによつても貸付金でないとはいえないのである。もし、原判決のように解すると、会社から引き出したときその額全部につき課税され、返済したときに又課税されるという課税上極めて酷な結果を来たす(現にそのようにされている)のであつて、不合理極まるもので許されるべきではない(東高昭和四一年三月一五日判決、税務訴訟資料五五巻一九六頁)。公平な納得できる課税という合目的的配慮-それは租税法律主義の真意でもあろう-によつてこそ税法は解釈され、適用されるべきである。本件について問題とされている金員を貸付金と認定し、その金利相当分の利益供与という事実認定と税法適用をすることが、右の合目的的配慮にそう所以であると信ずる。

三、要するに、本件金員の交付は、貸付金とすべきものであつて、これを否定する原判決は違法というべきである。

第八 控訴趣意の正当性について

控訴趣意書ならびに本書に述べた弁護人の見解は十分客観的批判にたえうるもので、検察官のいわれる如く「独自の見解」ではないと確信するものであるが、念の為弁護人は、本件で問題になつている若干の点、すなわち、

一、金融に関する事業を行つている個人の手形割引による所得の帰属年度はいかにして決定されるべきか。

二、1. 金融に関する事業を行つている個人の手持資金を預金し、いわゆる裏利をえた場合、それは事業所得か、雑所得か。

2. 右預金(右手持資金といわゆる裏利をふくむ)先である金融機関の経営不振により、店舗を閉鎖した場合、いつの時点で貸倒と認定すべきか。

三、匿名組合における投資利益配当請求権(事業者から見れば分配利益支払義務)の確定する時期は何時であるか(収益、経費の計上時期は何時か)。

について、京都大学教授須貝修一氏に意見を求めたところ、別紙のような意見を寄せられた。

それによると、これらの問題点については、全く、ないし殆んど弁護人の見解と同趣旨のそれを述べておられる。

弁護人としてはこれに同調するとともに、前記確信を益々深める次第である。

昭和四四年(う)第一八五七号

所得税法違反 斉藤博

右の者に対する頭書被告事件について、別紙のとおり控訴趣意書の補充書(第二)を提出する。

昭和四四年一二月一六日

右被告人弁護人 真鍋薫

東京高等裁判所第六刑事部

御中

控訴趣意書の補充書(第二)

第一 ほ脱犯既遂時における申告義務不履行の故意について(控訴趣意書三丁、答弁書四丁)

検察官は、「………であつたのにかゝわらず………の虚偽の確定申告書を提出し」と判示することによつて、申告義務不履行の認識が判示されていると主張される。しかし、いかに強弁しても、右判示は、税額ならびに申告書提出の客観的事実の叙述にすぎず、被告人の主観的認識と相関するものでないことは、日本語の語法上理の当然であつて、弁護人がこれによつては、ほ脱犯の故意の判示としては不十分であると主張する趣旨はここにある。

税額が申告より多くても、又申告が正当税額より少く、したがつて客観的に観ればそれが内容虚偽のものであつても、それは被告人が認識しない以上、被告人の故意の内容となるものではない。判示としては、必ず、その客観的事実について被告人がこれを認識したことの説示を要するものであつて、これのない原判決(およびこれを支持する検察官の意見)は違法といわざるをえない。

第二 不正行為の摘示が不十分だとの主張について(控訴趣意書四丁、答弁書五丁)

一、検察官は、過少申告がほ脱犯の不正行為の典型的なものであるから、この事実を摘示する限り、不正行為の摘示として不十分だといわれる。

しかし、この論には二つの点で問題がある。一つは、客観的に過少であることと、主観的に過少の認識があることとはことなるのであつて、単に計数上客観的に過少であることの一事をとらえて、これを主観的に不正行為の類型にあてはめることの不合理性の問題である。主観的に被告人が正当と信じてした申告が結果的に見て客観的に過少であるからといつて、これを被告人の犯行としての不正行為と理解することは論理の面をことにする二者を強引に結びつけるもので、正当とはいえない。他の一つは、過少申告そのものを、不正行為の典型とする態度である。

それは、単純に無申告で申告期限を徒過した場合と比較すれば十分理解できる。すなわち、一方、過少にしろ、申告という「積極的」行為をとつたが故にほ脱犯とされるに対し、他方、堂々と(?)申告すらしなかつた者については「積極的」行為がないが故にほ脱犯とされないということとの比較からすれば、過少申告を不正行為の典型とすることの不合理性はおのずから明らかであろう。小心翼々として申告したものがほ脱犯とされ、図太く無申告をきめ込んだものがほ脱犯とされないことの不均衡を来たすからである。

所得税は一年間のすべての取引の集積の結果に課されるものであり、ほ脱は、その各取引毎に工作を加えて税額の正当な算出を阻害する行為を加え、かつ、それらを集計して申告期限において納付税額が存在し、(欠損があれば、ほ脱は問題とならない)ていることが要件をなすのであつて、単に、片々たる申告書の提出の有無によつてはほ脱犯の手段の有無を決するのは正こうを失した論といわざるをえない。

二、検察官は、過少申告の事実があれば、不正行為の摘示として十分であるとの立場をとり(原判決も同旨)、したがつて配当、譲渡所得等について特に不正行為の摘示がなくても違法ではないと主張されるが、その論が、前提とするところに右のような誤りがある以上、採用するに由ないものといわざるをえない。

第三 ほ脱結果発生の事実摘示が不十分であることについて(控訴趣意書九丁、答弁書七丁)

検察官は、申告書を税務署長が受理し申告期限を徒過したことは、課税権の行使を不能ないし著しく困難ならしめたことになると主張される。

しかし、課税当局には、強力な質問検査権があり、申告期限後三年ないし五年にわたつて課税権を行使しうることは法の明定するところ(旧法六三条、新法二三四条、国税通則法七〇条)である。しかして、税務署長は納税申告書の提出があつた場合には、調査をし、申告と調査の結果がことなるときは更正する職責を有している(国税通則法二四条)。これは無申告者についても同じである(同法二五条)。そして、この調査は右のように三年ないし五年なしうるのであり、その期間内は、正当税額把握のためになん度でも更正をなしうることとされている(同法二六条)。このような法制度の下で、単に(過少の)申告書が提出、受理されたというだけで、課税権行使が不能ないし困難になつたとすることは明らかに誤つた法解釈というべきである。ことに本件の場合は、被告人は右の調査を受け、すでに納税を済ませているのであるから、少くとも本件については、課税権行使が不能ないし著しく困難になつた事実は全くないといわざるをえないので、あつて原判決(および検察官)は事実誤認をおかし、その前提に立つて法律の解釈適用をあやまつていることあきらかである。

本件においては、右以外に課税権の行使が不能又は著しく困難ならしめられた事実の立証はないのであるから、ほ脱犯は成立する余地はない。

第四 ほ脱犯の犯意について(控訴趣意書一〇丁、答弁書八丁)

検察官は、被告人にいわゆる概括的犯意があつたし、申告すべきことを知らなかつたのは法の不知で犯意を阻却しないと主張される。

しかし、仮に概括的犯意を認めるとしても、それは、申告義務のある所得について、数額は別として申告義務を履行しない部分のあることの認識であると解すべきところ、被告人には、申告義務の認識がないのであるから、そもそも概括的犯意の問題がおこりようがないのである。かつ、申告義務がないと考えるについて、法律にくらい被告人として無理からぬところがあることすでに述べたとおりである以上、犯意を阻却するについて相当の理由があるというべきで、結局被告人にはほ脱犯の犯意はないといわねばならない。検察官の答弁は形式的で吾人を納得せしめるに足るものがない。

第五 手形割引について(控訴趣意書一六丁、補充書七丁、答弁書一二丁)

手形割引については既に論じたのであるが、その中心点は所得発生時期の認識に関するものである。以下更に次のとおりこれを敷えんしたい。

原判決は手形割引という取引の性質については売買説をとつているようであり、ただその所得の計算については貸付説をとつて時の経過とともに確定してゆくとしているようでもあり、一方では取得による差額が収入を構成するといい、また他方では用役(ここではおそらく貸付け)の対価といい、その間に矛盾が存するばかりでなく、他方被告人が売買説の立場にたつてその方法によつて継続して会計を行なつているのであるからこれをむげに排斥することはできないのであつて、それが合理的なものであるかぎりは、納税者の主張を尊重するのが最近の税法上の考え方なのである(たとえば法人税法二二条四項のごとき)。

原判決は「次に本件割引収入の期間計算について検討する。」として、「手形は振出人に対する一定額の金銭債権を化体した有価証券であつて、その評価はあくまで手形金額によることを原則とする」から「これを割引により手形金額以下で取得した場合には、手形金額と取得額との差額について手形割引収入が構成される。」という。これは手形割引の法的性質をもつて債権の売買と解するものである。そしてまたこれが法律学上の通説でもある(たとえば有斐閣民事法辞典下巻一四五一頁手形割引の項)。

手形割引を売買と解すると、取立または再割引によつて実現がなされるまでは収入が発生しないのではないかとも考えられうる。この説によれば、期日または再割引の日を待たねば収入が生じないこととなろう。しかしながら、もちろん原判決はこのような説によるものではない。所得税法上収入金額は収入すべき金額であり、発生主義の会計方法をとり、現金主義によるものではない。そこで、手形によつてあらわされる債権を取得することをもつて所得の発生には必要かつ充分とするものであろう。そしてそれは正しい。「手形金額と取得額との差額について手形割引収入が構成される。」というのは債権の形において発生した収入を見ているものであろうと考えられるからである。

しかし、原判決は右の売買の時点において収入が債権の形で発生することを認めながらも(もしそうでなければ取立または再割引まで待たねばならぬ)、しかもこれが「時の経過とともに確定するものと解すべきである。」とした。そこで売買の時点において発生するものは「手形割引の前受収益」にすぎないとされる。前受というのは手形の期日に実現される収益に対して、特に前受というのである。しかしさればといつて、前に述べたように、実現された収益だけが収益であるとするのではない。もしもそう考えるならば、これは現金主義にほかならず、これは原判決のとらないところである。

むしろ原判決は、期日に実現されることの期待される債権としての右の「差額収入」を手形売買の時点から期日までの期間に割り当てて対応せしむべきものと考えたのである。これは実現されることの期待される期日における収益から時間的に逆算して、手形割引収入が刻々実現に近づいてゆく過程として期間計算なるものを考えたのである。これは広義の利子所得(税法上の所得分類としてのそれではない)と同一の平面において把握するものであつた。

しかしながら、このような利子所得的平面における考え方は手形割引額の経済(エコノミツクス)を説明するものではあつても、実は法的現実ではない。手形割引額は種々の複雑な因素から力関係によつて決定されるものであり、このようにして決定された割引額による収入が期間的に実現に向つて近づいてゆく過程は想像としては興味があろうが、それは法的現実からはほど遠いのである。この両者はまつたく区別されるべきものであろう。

原判決はそこで、「用役の対価」という議論を持ち出して、右のような架空的期間計算を補強しようとする。しかし、この場合「用役」というのは金融業に関する以上、貸付け以外には考えられず、しかも本件の場合原判決は前に既に妥当と思われる売買説による構成を暗もく裡に採用しているのである。貸付け説は右の売買説と相容れないから、これを採ることは出来ない相談である。そこで、現に、原判決は本件に関しては、直接には、「用役の対価」ということはメンシヨンしない。「その事業収入は、右に述べた原則に従い、割引以降、時の経過とともに日々実現し」というのはそれで、「右に述べた原則」中に間接に暗論しているにとどまり、直接に用役の対価とはいわないのである。また、原判決は「本件は正に継続的な手形割引業に関するものであつて」といい、あたかも手形割引が継続的用役そのものであるかのごとき口ぶりであるが、ここでは個々の手形割引が問題となり、個々の手形割引中に含まれた継続的時々刻々の用役提供の有無が問題となつているのであるから、もしも原判決が前の意味で言つているならば、これは見当はずれである。そうすると、「右に述べた原則に従い」とするのはこの場合には該当しないこととなるであろう。ついでながら、「日々実現し」というのはいささか不正確で、実現に近づきとせねばなるまい(もつとも、実現に余りに近づきすぎると、前述のように、禁物の現金主義に堕することを警戒しなければならない)。

このようなわけで、原判決の期間対応計算は仔細に検討してみると、不合理であり、かつ余りに想像に走りすぎて、現実から遠ざかり、事実の認定ないし構成としては不適当であることが判明する。とすれば、これは原判決のこの問題に関する原則論、すなわち手形割引行為売買説に今一度立ち帰ることが必要となる。すなわち、手形を「割引により手形金額以下で取得した場合には、手形金額と取得額との差額について手形割引収入が構成される。」とする部分がこれである。

原判決が「割引により手形金額以下で取得した」とするのは手形に化体され、その評価が手形金額によるべきものとされる「振出人に対する一定額の金銭債権」であり、取得額が取得される手形の額面金額以下であるから、その差額によつて量られる「債権」の部分が「手形割引収入を構成する」。債権の売買として手形割引を考えているから、原判決は売買説をとるものとされるのであるが、同時に右の差額の債権の部分が所得税法上の「収入」を構成するとしているものでもある。所得税法上の収入は前にも述べたように収入すべき金額なのであるから、右のような債権の部分は税法上の収入を構成すべき充分な適格性を有するのであり、かつこれが確定していないとするならばいつたい何が確定しているとされうることになるのであろうか。しかも、右の債権が「期日」または再割引の日に向つて時々刻々に確定し現実化してゆくという「期間対応計算」的構成が案外に不合理なものであることは前に論じたところである。そうであるならば、合理的なものとして残された唯一可能な考え方としては、手形割引の時において収入が権利確定の意味において発生するというよりほかはない。つまり原判決の中から期間対応計算による貸付け所得税を不合理として除いたところの売買説による部分だけが合理的なものとして残り、この説によれば、差額債権の部分を限度とする収入ないし所得が手形割引き時に確定的に発生するとされうるのであり、そして税法の要請する確定度は債権の形で既に充分とされうるのである。期日に近づくにしたがつて段々に確定度を増すというような議論によつて発生の帰属年度を定めるべきものではない。割引きが行なわれうることが既に権利の確定を前提としているのである。そのような意味で確定している債権が納税者について発生したのは何時か、というのが収入帰属年度の問題であり、それは本件の場合には債権を取得した日すなわち手形割引きの日であると回答されるのである。のみならず既に被告人は永年にわたり経験にもとづいてそのような経理をしてきたのであり、それが右のように合理的であるとされうるからには、前に述べたように、税法上も尊重されるべきである。

結論として、本件のように金融に関する事業を行なつている個人の手形割引による所得の帰属年度は、手形割引き時を基準として決定されるべきものである。

第六 謝礼金について(控訴趣意書二六丁、補充書一一頁、答弁書一六丁)

謝礼金についても、さきに論じたところである。この問題は、所得区分と貸倒時期の認定の二点が中心論題である。以下これらについて、若干の敷えんを試みる。

一、所得区分について

原判決はこの問題に関して、これを雑所得としている。すなわち、「被告人は、手形割引による金融業を営んでいた」として、被告人の手形割引だけを事業と認め、他は非事業とするとともに、「謝礼金について」と題する項において、「右謝礼金は裏利としても」うんぬんといい、右の問題にいわゆる裏利を謝礼金とすることを明らかにしており、この「右謝礼金の貸倒れ損の主張について検討するに、旧所得税法は雑所得につき」「事業によらない貸金元本の貸倒れ損は必要経費と認めなかつたもの」として、右謝礼金もしくは裏利が事業によらない貸金(非事業貸金)による雑所得とすることを明瞭にしている。

雑所得は、旧法九条一項一号から九号までに掲げる所得以外の所得であるから、非事業貸金の利子等の所得で事業所得と認められないもの等が、これに該当する(基本通達一五一)。原判決はこの解釈によつている。この解釈そのものは正しい。しかし、それは問題の所得が事業によらないものであることを前提とした上でのみ、この解釈を適用することが正しいものとされうるのである。ところが、金融業を営む者が手形割引だけに専念するとは考えられないのみならず、その貸金が事業によらないものであることを前提とすることはきわめて疑問視されうる。

原判決の認定するところによれば、「右謝礼金は不動信用に対するいわゆる導入預金をなしたことに基づき後藤観光から被告人に支払われたものであり」、それは「不動信用に対する定期預金の利息とは認め難い」としたが、「かように右謝礼金はいわゆる裏利としても」として、正規の利子でないとしても謝礼金が実は裏利であることを認容したのに近い態度をとつた。

三億円余というまとまつた巨額の金銭が私生活用の資金であつたとは考え得られない。そうだとすれば、それは事業用資金であつたとしか考えられないところである。またこれに反する主張立証はない。この巨額の事業用資金が「金融業を営んでいた」被告人によつて、不動信用に対するいわゆる導入預金の形をとつて後藤観光に投資され、五千万円余の謝礼金もしくは裏利を発生せしめたのである。不動信用はいわゆるコンデユイツト(導管)としてつかわれているのであるから、原判決も「いわゆる導入預金」の点は認めているところである。「各年分を通じ、本件手形割引収入は、その目的、回数、取扱手形の数、金額、期間等諸般の事情から考察して継続的行為による取引から生じたものと認められるから、事業所得を構成すべきものと認定する。」とされた手形割引行為に比較してみても、その巨大な規模および顕著な営利性の点で優に匹適するとも遜色はないのである。

基本通達九三によれば、「金融業に該当するかどうかは、その口数、貸付金額、利率、その者の総所得金額のうち金銭の貸付による所得の金額の占める割合その他諸般の状況を勘案のうえ、これを判定すべきである」としているが、その金額、利率、その割合の上で、本件の取引が素人の仕わざであろうか。その金融業に属することは歴然としている。右の通達はなお、「特殊の関係ある者のみに貸し付けている場合は、金融業に該当しないものとする。但しその金額が多額に上る場合(五〇万円以上)はこの限りでない。」として金額的規模だけで非事業性がオーバーライドされることを明らかにしている。本件のごとき行為をもつて、「非事業貸金の利子等の所得で事業所得と認められないもの等」に該当するとすることは出来ない相談である。通達にいう雑所得は「親せき、友人等」特殊関係者のみに対する五〇万円未満の場合だけを意味しているものである。三億円余りの導入預金から五千万円余りの裏利を得る行為について事業性を否定し、雑所得とすることはできない。

そこで、本件に帰つてみるのに、金融に関する事業を行つている個人の手持資金を預金し、いわゆる裏利をえた場合、それはプロフエツシヨナルなものであつて素人のよくするところではなく、すぐれて金融業的な行為であるから、事業とすべきであり、それによる所得は事業所得であつて雑所得ではない、とすべきである。行為の品質もだいじであるが、殊に本件の場合において、その規模・金融の雄大さからいつて、その行為の事業性に疑問の余地は存しない。

二、貸倒時期について

事業所得計算について問題となる貸倒れについては、回収不能の事実が生じたかどうかの判定について、その判定基準は実際の取扱上、かなり厳格である。それでも、債務者が事業閉鎖を行なうに至つたため、またはこれに準ずる場合で、回収の見込みのない場合には、回収不能になつたものとすることは定説といつてよいであろう(税務会計講座第三巻細見卓・岡崎一郎共著所得税法二九五頁)。実際の取扱上、回収不能の事実の判定が厳格であるのは、こうしないと、税務行政としては、将来の事情の発展を事前に予知予測することが困難で、濫用のおそれがあるからのことである。しかるに、裁判上、事後において証拠により認定を行なわれる場合には、予測・推量に或る程度依存せざるを得ない税務行政の場合とは、全く選を異にするというべきである。すなわち、裁判の場合には、たとえば原判決で認定しているような「その後回収不能により」うんぬんというので、回顧的に、預金の支払停止・店舗の閉鎖までさかのぼつて、その時から支払不能を認定することもなし能うからである。

この点は、すでに述べたように、昭和三八年中に店舗を閉鎖し、他の機関の管理に移り、この管理者たる中央信用金庫の肩替わりによつて、翌年一部の支払がなされたものであるから、不動信用からの回収とはいえないのであり、それによれば当然、右店舗閉鎖の時において貸倒を認定すべく、それは決して税務行政上の取扱と矛盾し又は理論的な歪曲を招来するものではない。

第七 給与所得について(控訴趣意書三二丁、補充書一三丁、答弁書二〇丁)

会社からの借入金については、さきに述べたように、被告人の所得とせられるべきものでないこと、証拠上極めて明確であつて(斉藤栄八郎の証言、被告人の供述、弁第一、二、三号証)、これを覆すに足る証拠はないのであるから、原判決は事実誤認を犯していること多言を要しない。

原判決は「被告人の昭和四一年六月一〇日付質問てん末書、同年(四二年の誤り?)二月一四日付供述調書その他前掲の関係証拠」により事実を認定したと判示される。

しかし、昭和四一年六月一〇日付質問てん末書には、本件係争年度以前に個人で米軍から払下を受けた物件について、会社名義で売却した、その取引について述べられているが、前記事実を認めるに足るものはない。又昭和四二年二月一四日付供述調書には、この件についての供述は全くない。

又、検察官の主張される帳簿上の記帳処理に依拠する認定方法が、極めて形式的であることはさきに述べたとおりである。仮りにこれによるとすれば、返済の事実とその記帳処理についてもこれを事実認定の資とすべきであろう。

要するに、この点について、原判決は証拠によらずして事実を認定するか重大な事実誤認をしているのであつて、違法である。

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